尾崎一雄 暢気眼鏡 目 次  猫  暢気《のんき》眼鏡《めがね》  芳兵衛  擬態  父祖の地  玄関風呂  こおろぎ  痩《や》せた雄鶏《おんどり》  華燭《かしよく》の日  退職の願い [#改ページ]   猫     一  何とも形容しかねるような喚《わめ》き声を立て合ったかと思うと、あれが猫かと驚く程の足音でそこら中を駈け廻る。今が丁度その時期なのであろう。さ程でもなかったうちは「うるさいわね。あなた読んでること、頭にはいる? しッ、猫の莫迦《ばか》」などと寝床から首を擡《もた》げて云っていた芳枝《よしえ》も、騒ぎがだんだんと激しくなって、とうとう三四匹と思われる奴等が一度に絶叫すると同時に、一団となって私達の部屋の羽目板にぶつかった時には、キョトンと息を引いて変な顔付になって了《しま》った。それからはものも云わず、蒲団《ふとん》の中に大きな身体《からだ》を出来るだけ縮めるようにして、眼だけ出して凝《じ》っと私を見詰めている。こいつすっかり怯《おび》えて了ったなと私は可笑《おか》しく、然し面《おもて》には現わさないで読書を続けていたが、ああして自分を見ていることで多少とも怖《こわ》さがごまかせるのだろう、自分の視線を欲しがっているに違いない、そう思うと、芳枝の臆病《おくびよう》さや甘えが見得からでないことをよく知っているので、ものも云わず見てもやらずいることが多少は罪のような気がしないでもなかった。一方猫共はまだその大騒ぎに|たんのう《ヽヽヽヽ》する気色《けしき》もない。さすがの私も少しうるさく、それに読書にも少し飽きて来たので、あアあと一つ欠伸《あくび》をして、 「ねえおい、あれ、猫にしては少し大き過ぎやしないか。若《も》しかしたら犬だぜ」と芳枝を見ると、芳枝はいっぱいに見開いた眼を唯ぱちくりさせるばかりだ。 「然し何だぜ、犬にしてもこれは少し大き過ぎる。馬だよ」そう云っては見たが、こんな落語の古手が今更可笑しかろう筈《はず》はなく、「犬かしら。だけど、鳴声は確かに猫よ」と本気で云っている芳枝に返事もせず、あアあとまた欠伸をした。そのとき隣家の雨戸の開く音がして、声だけで馴染《なじみ》のそこの中婆さんが、 「なんてやかましいんだろうね。寝られやしないよほんとに」と、いつもの甲高《かんだか》い声をいよいよ尖《とが》らせている。中でそれに応《こた》える亭主の声も微《かす》かに聞こえて、やがて婆さんの「ちくしょ!」と云う声と共に、地べたで何かブリキの空罐《あきかん》らしいものがヒドイ音を立てた。同時に猫共の声々はピタリと止み、風のようなものが私達の窓に添うて流れたと思うと、もう五六軒先の露路とおぼしい所で新たな騒ぎが始まっているのだった。  すると芳枝が現金にもムクリと起き直って「なんてやかましかったんでしょう」と嬉しそうな笑顔を見せた。「なんて怖かったんでしょう」と云わないところが私には微笑ものであった。 「為方《しかた》ないよ、彼等にとっちゃあ重大事なんだもの、今が交尾期だろう」 「そうお。いやねえ。みっともないわ」 「猫は猫——」人間は人間と云いかけたのを呑《の》み込んで「こっちの知ったことじゃない。もう怖くないだろう、寝なさい」私は一寸《ちよつと》その気になれてまた本に向った。するとそれを追いかけるように、 「ねえねえ、猫って本当は、怖いんだよオ」と、芳枝が眼を丸くして云い出した。 「ほオお」と私がわざわざ大げさに受けてやると芳枝は乗り気になって、 「あたしんちの近所でねえ、赤ちゃんが猫に喰《く》われたんだよ、こわア」と後の半分はすっぽりかぶった蒲団の中で云った。  芳枝の臆病癖も、初めはこれも愛嬌《あいきよう》になると笑い流していたのだが、妊娠してからのその昂進《こうしん》振りは、暢気《のんき》な私をも何となく放って置けぬ気にさせた。勿論《もちろん》持って生れたものらしい小胆と臆病を今急にどうしようも無いことは判《わか》っていたが、身体の異常から来る神経にそれがからまれては——「本人、延《ひ》いては胎児の為《ため》にもよくない。困った」と私はさりげない顔付の裏側でいつも気が揉《も》めてならないのだった。  私に働きがないため、ひどい貧乏をしているのである。いずれは迫る出産の為にも、こんな薄汚い下宿は早く出て、どんなでもいいから一軒の家を借りたいと願っているのだが、宿に多額の宿料を溜《た》めて、とうとう食事を運んで貰《もら》えぬようになった今の有様では全く手も足も出はしない。元来が臆病な芳枝は宿の主《あるじ》や主婦や女中までも怖がって了って、昼は廊下に出るだけでもびくびくものである。障子をちょいと開けて首を出し、帳場の方を見てはまた引込めるようなことをしているので、どうしたんだときくと、「おしっこしたいんだよオ」と声をひそめる。「早く行って来い。毒だよ」と云ってやってもなかなか行こうとしない。そのうち|すき《ヽヽ》を見出《みいだ》したか(も可笑しいが)なるべく音を立てない全速力で便所へ駈けて行く。万事がそんな工合である。 「下宿の払いにしろ何にしろ、そんなものは一切俺の責任だから、君は平気でいればいいじゃないか。現にここの主人だって君に請求したことなんか一度もないだろう。そうびくびくされていちゃあ、第一俺がやりきれないよ。二重に苛《いじ》められてることになるんだからな。俺はこんなことには慣れてるし、齢《とし》は齢だし、勘定取り位におどかされやあしないが、しょっちゅう|はた《ヽヽ》にいるものにそう神経をぴりぴりさしていられては、これが一番こたえる。為事《しごと》も落ちついて出来やしない」私が云うと、芳枝は尚《なお》のことしょげて了って「女中まであたしの顔、用もないのにじろじろ見るんだもの」と泪《なみだ》ぐむことさえある。無理もないと云えば無理もない。大した苦労なしで育って来た十九と云う若さで、学校を出ると半年|経《た》つや経たずにふらふらと私のようなものと一緒になった。爾来《じらい》一年間と云うもの私にこれと纏《まとま》った収入もなく、芳枝の着物を次々と質屋に運んで今は人前に出られる風はしていない。それのみか、時によるとたった一枚残った普段着さえその日の米に代えられて、芳枝は「人が来たら病気よ」と、一日床の中にもぐっていることさえあるのだ。 「ねえ、ほんとに、冗談でなしに、赤ちゃん生むのどうしたらいいでしょう」思い屈した風でこう云われると「なあに、何とかなる。ああなるとも。こう云うことはいずれ何とかならずにはいないものだよ。大丈夫」と私は笑ってのけるのだが、その「大丈夫」が余り度々大丈夫でないので、云う私の内心もさることながら、芳枝の頼り無さそうな顔付は——尤《もつと》も過ぎて可笑しい位だ。  こんな風で、昼間の芳枝は、じっと殻を閉じてすくんでいる|さざえ《ヽヽヽ》か|たにし《ヽヽヽ》、——|たにし《ヽヽヽ》であろう。夕方になり夜になり、夜も更《ふ》けて宿の連中が灯を消し帳場を引き上げる頃になると、芳枝は文字通り生き返って来る。昼間|圧《おさ》えに圧えられていたものが一斉に頭を擡げるのだ。「ねえねえ」と私の聞いているいないに頓着《とんじやく》なくおしゃべりを始める、唄を歌い出す、ゴム鞠《まり》の投げっこをしようと云う。私が相手にしないと、壁へ投げつけては受取り、一人興じている。果は散歩に出ようなどと云い出す。子供っぽさを全出《まるだ》しにして、人の寝静った夜更けこそ我が世界と云う顔ではしゃぎ廻る芳枝を眺《なが》め、気楽な風ではいるが私にも多少の感なきを得ない。  そんな或夜、鼻で何か歌いながら、鞠を天井目がけて投げては受取りしていた芳枝が、取り落した鞠を目で追って障子の方を向いたと思うと、いきなりわけの判らぬ叫びを上げたのである。「莫迦《ばか》」とこれはまた自分で驚いた程大きな声で私は怒鳴って了った。気の進まぬ為事にそれでもかじりつき、一きりに来て煙草をふかしながらぼんやり芳枝の方に目を放っていた私は、芳枝に何事が起ったかより何より、先《ま》ず芳枝のただならぬ声に驚いて了ったのである。 「いきなりそんな声を出す奴があるか。こっちがビックリするじゃないか。大莫迦野郎。一体どうしたんだ」 「猫よ、あの猫よ、大きな、齢とった」芳枝は目を釣り上げ、身体全体で息をしている。 「なんだ、たかが猫じゃないか。それがどうしたんだ。大げさな声を出すな」 「ちがうのよ。あの猫が覗《のぞ》いてたのよ。その、障子の穴から。眼がピカッと光って。いやア」と膝《ひざ》で私の方へ歩いて来る。 「猫だって穴があれば覗くさ。君があんまりはしゃいでるから、これゃ面白いと見物してたんだ」私は立ち上ると障子を開けて見た。すると、時々姿を見せるその猫が廊下にうっそりした風で立っているのだ。それは私がこの齢まで見たこともない程の老猫《ろうびよう》で、人間にしてみたらどの位の年寄りになるものか、ともかくそれはもう猫という域を脱けて何か他の変な生き物としか思われぬ奴であった。肉づきがいいとは思えないが、全体にまるでつやのない毛が皮膚から突き立ったように密生して身体を丸く見せ、殊《こと》に首の辺には一寸《ちよつと》ライオンの|たてがみ《ヽヽヽヽ》に似たものが垂れ下る程生えている。顔は妙に|つるり《ヽヽヽ》とした感じで、耳は毛に埋まって小さく、それが光る眼を上げてじっと私を見つめている。 「こら」腹に力を込めて私が云うと、猫はゆっくり身体の向きを変え、のそりのそりと歩き出しはしたが、便所へ曲る角の所へ行くと立ち止り、またふいとこちらを向いたのである。私は、なめるな、と云う気で廊下に一歩踏み出すと手を振り上げ、足で廊下を|どん《ヽヽ》と一つ踏みつけてやった。すると猫は、どっこいしょと云った恰好《かつこう》で内庭に飛び下り、やはりのそのそした歩き方で、信心家の宿の主人が祭っている小さな稲荷《いなり》の祠《ほこら》の蔭に姿を消した。 「もう行っちゃったよ。然《しか》し、確かにあれは気に入らない猫だね、第一ずうずうしいや」 「そうでしょ、だからあたし厭《いや》なの。あんなのきっと赤ちゃん喰べるのよ」 「さあね。油位なめかねないかも知れない」 「揮発油、大丈夫かしら。押入れへしまっとかなくていいかしら」 「いくら齢とったって揮発油なめる猫があるかい」  どうかこうか芳枝も落ちつき、やがて安穏な|いびき《ヽヽヽ》を立て始めたので私はまた机に向った。夜明まで、為事が出来ても出来なくても坐っているのが私の習慣である。そしてこの頃はその長い時間を、みじめな自分達の生活、殊に父は居ず、私と一緒になったが為に郷里の母には見離され、同じ東京に居る姉の所へは怖くて顔出し出来ぬと云うたよりない芳枝の身の上を、無駄に思いつづけるのだった。  ——一体籍の方なんかどうしたらいいのか、と私はその夜も同じことを思いわずらっていた。やがては子供も生れようと云うのに——。私の方は別に気にすることはない。三十過ぎた戸主であり、今まで勝手なことばかりして来て、母や親類の者共に何一つ反対させなかった私である。よし反対したところがこっちはかまわず思う通りをやって来ている。だから今度の事でも、またかと思われる位で事実上には何の妨げもやって来はしない。だが、芳枝の方はそう簡単にはゆかぬ。第一に法律上姉の承諾が必要だし、そこへ持って来て——などと変らぬ屈託に沈んでいると、うしろでいきなり「ニャー」と云うものがある。鳴き声で判ったが振りむいて見ると、白地へ黒ぶちの毛並美しい仔猫《こねこ》であった。 「こら、お前どこから入って来た。あの穴からか、よしよし」私はミーチャンとでも名のついていそうな愛らしい仔猫を膝に乗せてやった。そして私の掌《てのひら》に入って了いそうな頭を軽く撫《な》でてやると、まるで子供の癖に眼を細め咽喉《のど》を鳴らすのだった。ところが暫《しばら》くすると、仔猫らしい移り気で、もう私の膝にじっとしてはいない。ひょいと立ち上ると、私の手など全く無視した風で畳に下り立ち、不意に立ったが為に多少よたよたした足どりで部屋の中を歩き始めるのだった。少し口をあけている芳枝の寝顔を覗き、解かれて長長と枕辺《まくらべ》に波打っている芳枝の髪に少しばかり|ちょっかい《ヽヽヽヽヽ》を出す。それも直ぐ止《や》めると、横歩きみたいに壁の方へ寄って行く。そこには芳枝のしごきが鴨居《かもい》から下げられて、その端は畳とすれすれになっている。仔猫はそれにすっかり興味を感じたらしい。  先ず獲物の前に坐って、首を傾《かし》げ、左右の耳を動かしながら眺めている。やがてちょいと片方の足を出して触《さわ》って見る。また暫く眺めている。と、今度は二三度素早く引掻《ひつか》きを入れる。すると縮緬《ちりめん》の布が爪《つめ》にひっかかって大げさにゆれる。もう両足が激しく動き出す。さっと後に身を引いたと思うと、聞いた風な身構えをする。一気に飛びつく、力余って壁にぶつかり、どさりと引繰り返える。——  煙草をふかしふかし見ていた私は、芳枝が寝返りをしたので不図《ふと》気付いたのであるが、これはこのまま放って置けない、猫を追い出すか芳枝を起すかして了わねばあぶないと思ったのである。どさりと猫が引繰り返った拍子に芳枝が眼を覚ましたら、大凡《おおよそ》どんなことが起るか——、然し、いかにも可愛い仔猫で、それを追い出すことは何となく躊躇《ちゆうちよ》されたし、またこんな猫ならうまくやれば、芳枝の遊び相手になるまいものでもあるまい、「それでは芳枝を起すか」と腹で答えて、私は芳枝の枕元に寄って行き、なるべく驚かさずに起すにはどうしたらいいかを考えながら「芳兵衛、芳兵衛」と云った。 「おい、一寸起きろ、とても面白いものがあるんだ。とても面白いぞ」  すると眼を開いたので、 「とても可愛いものがあるんだよ、小さな奴なんだ」——猫という言葉がなかなか出せないのである。 「小さい何?」 「ちっとも怖くない奴なんだ。一人でじゃれて遊んでるぜ。可愛い生れ立てみたいな猫なんだよ」 「…………」猫と聞いて頭の芯《しん》まで眼を覚ましたらしい芳枝は、いきなり首を引込めたが、やがてそろそろ首をもたげて、 「どこ?」と、不安らしく辺《あた》りを見廻した。     二  その夜から、仔猫と芳枝とは無二の友達になった。名は私が云い出してミー公とつけた。芳枝はそれを愛らしくミーチャンと云う。夜も更けて人の寝しずむ頃になると庭先に鳴声がし、やがて音もなく障子の破れから小さな顔が現れる。それから一時間、時には二時間にわたって、どっちがじゃれているのか分らぬ喜戯が続くのだった。  芳枝が立って腰紐《こしひも》をぶらさげ、いろいろに振ってやる。紐は芳枝の手先に操《あやつ》られ、まるで生き物のようにはね躍《おど》って中中仔猫の爪が立たぬ。今度は畳に紐を寝かせて、蛇のようにのたくらせる。それにも飽きるとゴム|まり《ヽヽ》を転《ころ》がす。その遊びが一番うるさく、|まり《ヽヽ》を追う猫が余り調子づく度に私は叱りつける。芳枝が疲れて長い足を投げ出しているとその指先にかじりつく。勢い余って本気に歯を立てでもすると、長い足の一振りで仔猫は向うの壁際《かべぎわ》まで消し飛んで了う。実際遊びに身が入りすぎて、両方が変に殺気立つ事もあった。為方《しかた》なく私が双方をなだめるのだが、しんとした真夜中、本気でにらみ合っている二つの生物の様子には、一種の凄《すご》さが感じられる時もあった。  夜更けてでなければ来ないと知りながら明るいうちからもうその鳴声を待っている程仲の良かった仔猫を、或事から芳枝が酷《ひど》く憎むようになった。「もう猫なんて、あたし性が合わないんだわ。もオいや」庭先に声がすると、手当り次第に闇《やみ》をめがけてものを投げつける。ふと部屋に入ってでも来ようものなら、それこそ廊下を越えて一気に庭まで蹴飛《けと》ばして了う。仔猫はとうとう姿を見せなくなった。  或夜、私がふと気づくと、もういないとばかり思っていた仔猫が、私達の裾《すそ》の方にちゃんと坐って変な顔をしていた——と芳枝は固く主張するのだが、それはあてにならぬ、とにかくじっと二人の様子を眺めていたのである。 「おい、ミー公が見ているよ」これは御愛嬌《ごあいきよう》だと私が何の気なしに云ったのである。芳枝が両方の眼をガッと見開いたと思うと非常な力ではね起きて——とにかく私は全く驚いて了って、固く喰いしばっている口を無理に開けて水を呑《の》ませるやら、寝衣《ねまき》を通して油汗のにじんだ背中を忙しく撫《な》でるやら、その時はいつもの癖の「莫迦」と云う怒声を立てることすら全《まる》で忘れていた。  その夜はとうとう明けるまで眠らずに、変に光る眼をして壁や天井を見まわし時々歯をカチカチ鳴らした。何しろ落ちついて貰わねば胎《はら》にさわるとそればかりが気になって、私は小言《こごと》らしいことは一言も云わず、芳枝の頭を冷やす為、洗面器の水を冷たく冷たくとかえつづけた。  翌日|午《ひる》過ぎに眼を覚ました芳枝は、何か|つきもの《ヽヽヽヽ》の落ちたような間抜けた顔をしていた。 「どうだ、もう大丈夫か」 「今何時?」 「三時頃だよ。君は九時間たっぷり寝たぜ」 「そう。すっきりしたわ」 「すっきりしたもないもんだ。昨夜《ゆうべ》あんなにおどかしやがって」  芳枝は暫く放心した顔でいたがやがて珍らしく|しんみり《ヽヽヽヽ》した調子で、 「ね、この部屋、何とかして早く代ること出来ない? あたしもう我慢出来そうもないわ」 「いずれ代らなければならないんだがね、今が今というわけには行かない。然し早くしたいとはいつも思ってるんだから、君は出来るだけ落ちついていてくれ、その方が何もかもうまく行くよ」 「我慢するわ。だから早くしてね」 「今日は莫迦に聞き分けがいいね。いつもそうだと本当にいい子なんだがなあ」 「あたし本当はいい子なのよ。だけど、何だかいろんなことが怖くて」 「気の持ちようだよ。俺を見ろ。——猫位何だい。人間は万物の霊長じゃないか」 「…………」ふっと眼の色を動かしたが、「昨夜《ゆうべ》の猫、いやだった……。あの猫死んじゃわないかなあ」 「可愛いい、綺麗《きれい》な猫じゃないか」 「——あんなとこ、猫に見られて。……赤ちゃんが猫に似てたらどうしよう、まさかそんなことないねえ」 「実に奇抜なことを考えつくんだね君は。これゃ驚いた」と私は掛値なしに呆《あき》れると同時に、何か「凶」といったようなものが思いのほか身近に来ている感じで、頭が|しん《ヽヽ》となった。  それから一週間程|経《た》った或日、芳枝が「今お腹《なか》が動いた」と云い出したのである。いよいよそう云うことになって来たかと、私は今更にあたりが見廻されるのだった。「着物の上からでも判《わか》るの」と芳枝は或一個所に手をあて、上目して動くのを待っている。——  仔猫と別れて以来、芳枝は目に見えて沈んで了った。昼間の元気のなさは前からのことだが、今は夜さえ莫迦騒ぎをするでもなく、好きなおしゃべりで私をうるさがらせることもなくなった。若《も》しかしたら本当に病気になったのではあるまいかと気懸かりだったが、実は医者に診《み》て貰う余裕がない。それどころか未だ一度も産婆にさえ見せない始末なのだ。 「あなた子供の出来たこと、いやがってる?」と少しずるそうな眼をして聞く。私は晴れやかな顔をして、 「出来れば出来たでよし、出来なければ出来ないでよし。そこへ行くと俺は流通|無碍《むげ》だから始末がいいや。今では立派な赤ん坊の生れることばかり考えている。どうだい」 「そう」とおとなしくうなずいて「そんならよかったけど」  こんな貧乏で子供が生れたら困る、出来ないようにしよう、そうねえ、と云うことで、始めはそう云う方法を取っていた。ところが芳枝が内心不服である。日が経つにつれ、それと明《あか》らさまには云わぬながら、そんなにまで欲しいのかと憐《あわ》れっぽくさえ感じられ、譲歩して出来れば出来てもいいことにした。すると直ぐ出来た。  そしてもう六月《むつき》にもなるが私は「子供が出来て弱る」などと云ったことは嘗《かつ》て一度もない。云うどころか、そんな顔を見せたこともない。我《が》を通して子供を拵《こしら》えたばかりになどとずけずけ指摘されたら、只《ただ》さえこんな芳枝がまたどれだけ参ることか。この上芳枝に参られたらと思うと、自分の為ばかりにでも、そんな気振りはかりにも見せられたものではない。「男の子だといいがなア」不図《ふと》云ったことがある。すると言下に芳枝が「いやよ、女の子だわ」と怒った風に応《こた》えた。ところが、案外これが芳枝の「手」で、本人も私が望むのなら是非男児をと念じているのだ。もともと自分の我儘《わがまま》から子供をつくり、その上|良人《おつと》のせめてもの期待を裏切りでもしたらどうしよう、そんな気持が芳枝に「女の児」と心にもないことを云わせるのだ。私の失望を芳枝自身の表面《うわべ》の得意と喜びで中和させようと云うのだ。「あたしこんなに嬉しいの」そうしたら良人は直ぐそれもよしと却《かえ》ってあたしの為に喜んでくれるだろう。この人はそんな、まるでお父さんみたいな良人なんだわ。だけど、神様、どうぞ男の児をおさずけ下さいますように——。そんな芳枝の、柄にもない気持が手に取るように判るので、私としては二重に男の児が望まれる。若し女の児だったら、私は最初一寸不平|面《づら》を見せ、それから不自然でなく女児|礼讃《らいさん》へと転身して見せよう。いろいろと理窟《りくつ》はつけられるものだし、他人《ひと》の云ってくれるだろう気休めを利用する手もないではない。——  そう云う頃、芳枝のもてあそんでいたゴム|まり《ヽヽ》が、どうかした|はずみ《ヽヽヽ》で縁の下へ転がり込んだことがあった。芳枝が廊下につくばって覗くと、薄暗い床下《ゆかした》の、丁度私達の部屋の真中の見当に、それがほの白く見える。「取って」と云われてももぐっては行けず手近に竿《さお》もなく、「そのうち」と放って置いた。  幾日か経《た》って、厭《いや》なことが起った。中庭を掃除していた宿の女中が、ついでに縁の下もとそこを覗《のぞ》き込むと、奥の方に変なものが居るのを見つけたのである。よく見定めると、それはどうやら犬か猫の死骸らしい。女中の注進で宿の主人や主人の弟などが私達の部屋の前にどかどかとやって来た。何事が起ったかと、もう顔色を変えている芳枝を残し、私はそこへ出て行ったのである。 「何です」 「死んでるらしいんですがね。猫にしては大きいし、犬にしては変だし——」そう云いながら主人は物干竿の先に木の枝の鉤《かぎ》を結えつけていたが、出来上ると、 「これで届くだろう。お前やって見な」とその竿を弟に渡した。その時、部屋の中から「ちょっとオ」と低い芳枝の声がしたので私は入って行った。 「いやア」 「いやアたってしようがないよ。丁度この辺らしい」と私は立っている足許《あしもと》を指して見せた。  外では暫くがやがや云っていたが、やがて引出されたらしく「猫だ、これゃあの年寄りじゃないか」そう云う主人の声がすると、続いて女中の声で、 「なんか抱いてますよ」 「へえ、どれ」 「ゴム鞠《まり》だぜ、ゴム鞠を抱いて死んでやがる。可笑《おか》しな猫だなあ」 「なるほどゴム鞠だ、こりゃなんだ、こいつ|もうろく《ヽヽヽヽ》してるんで、鼠と間違えたんだよ——そのまま河へ捨てちまいな」  やがて「なかなか重いや」などと聞え、宿の連中は行って了った。  芳枝はものも云わず蒼《あお》い顔をして私のそばに坐っていたが、皆が引上げると、 「あの大きな猫ねえ」と云った。 「そうらしい。ゴム鞠と云うのは、君のだよ」 「それがこの下で死んでるなんて——」  怖さが凝結して、変に間のびした物云いしか出来ぬ芳枝の、血の気の全《まる》でない顔を見ていると、重ね重ねのことに、私は猫と云う奴どこまで変な野郎だろうと腹が立って来た。怖《こわ》がる奴が莫迦《ばか》にきまっているが、いつどうなるとあてのない貧苦の中で、とうとうこんなにまで病的になって了《しま》った芳枝の神経を前にしては、私も小言を云う気力を失った。 「何でもないんだがなあ、偶然なんだから。俺も凡《およ》そ恐《こわ》いものなしだが、君の神経だけには参る」 「偶然かも知れないわ。だけど、それを知らずに、私達ここに寝てたのね。ああああ。——ごめんなさい、あたし莫迦よ」 「いつも云ってる通り莫迦は確かに莫迦だよ。はッとこう、自分で気合かなんか掛けた途端に、暢気《のんき》になれないものかなあ」  芳枝は淋《さび》しそうに笑っている。私がその肩に手をかけて、 「ええ、どうだ」とゆすぶると、だんだんと泣き顔になり下を向いて了った。     三  芳枝が時時沈んだ声で猫のことを云い出す。 「あの猫死ぬ時どんな気持だったでしょう。猫の身になってみると可哀そうだわ。あたしそんな風に思うの、この頃」 「あれは老衰死だよ。自然にひと枝ひと枝と枯れて了《しま》った老木のようなもので、ああなれば悲しいも苦しいもありはしない、もうお芽出たい部類だよ」 「そう。でもね、あたしの鞠《まり》、どう云うつもりで抱《かか》えてたんでしょう」 「やっぱり鼠と間違えたか」 「あたしそうは思わないわ。あれ、きっと自分の子供と間違えたのよ」 「なるほど」 「そうでしょ。いよいよ死ぬと云う時になって子供のこと思い出したんだわ。丁度そこに鞠があったから、子供だとばかり思って大事に抱いて——あの猫きっと幸福に死んで行ったのね」 「俺にはそんなことは判《わか》らない。どうも面倒だな。——とにかく何でもいいから余り余計なことは考えないようにして貰いたいな、ええ。貧乏の上にそうじめじめしていたんじゃあ、ろくな児は生れっこないよ」 「ほんと。——あたしどうしてこうなんかしら」 「どうもかなわないな」  私はどさりとうしろに引っくり返り「いいざまだ」と、顔を笑っているように歪《ゆが》めたのである。  痩地《やせち》の、肥料の足らぬ、おまけに水がかり悪い稲のような私達が、どうかこうかもう一と月で出産と云うところまでこぎつけた。夏の盛りで、芳枝はどうにも恰好《かつこう》のつかぬ身体を萎《な》えたように据え顔色は変に煤《すす》ぼけていた。  或日、私が帳場へ呼ばれて、とうとう宿を出されることになったのである。宿としては溜《たま》った払いも払いだが、ここでお産されたりしたら第一閉口なのであろう。ほんの手廻りの物だけ持ち、あとの荷物はこのままと云う条件でとにかく出ることになったのだが、これは私にとっては|もっけ《ヽヽヽ》の幸であった。芳枝も、|がさ《ヽヽ》ばかりある我羅倶多《がらくた》道具に、あれもこれもと女らしい執着を見せながらも、厭《いや》なこの宿を出られることは、あとはあととして先《ま》ず嬉しいに違いなかった。私はこうなるのが当り前のような顔で貸間を捜し廻り、ある素人家《しろうとや》の離れのようになった六畳を見つけると、下宿の主人には厚く今までの礼を述べ、見違えるように活気付いた芳枝を連れて、芳枝には幾月振りかの昼の街に出た。  度重なる不義理で顔も出し難《にく》くなった友人達を歴訪していろいろと狩り集め、どうやらその日その日を過ごせるあてはついた。芳枝は風呂敷包みにして来た古《ふる》浴衣《ゆかた》を解いては、楽し気な顔付で襁褓《おしめ》つくりに余念がない。  見るもの聞くもの憂悶《ゆうもん》の種ならぬはなかった下宿の生活、終《しま》いには「こわい」と云う気力をさえ失って了って只|鬱鬱《うつうつ》としていた芳枝が、移ると同時におよそ快活な女になったのは、これで助かったとは思いながらどうにも苦笑ものである。 「あんまり現金じゃないか、ええ芳兵衛」 「だって、ここへは誰も借金取りに来ないでしょう、ここの家の人みんないい人でしょ、猫も居ないでしょう、だからよ」 「然《しか》し荷物みんな取られちゃったんだぜ。今は夏だからいいとして、だんだん涼しくなってそれから寒くなったらどうする?」 「その時はまたその時でどうにかなるわ、大丈夫よ」 「驚いたぞ、俺のお株取っちまったのか」  私もビール箱の机に向ってこれが初めての金取り原稿に懸っていた。或少女雑誌を編輯《へんしゆう》している友人に話して見ると、書けたら貰《もら》おうと云ってくれたのである。少女小説などと云うもの、もとより私のようなものに勝手が判ろう筈《はず》は無く筆は進まなかったが、金になることに励まされ私は|むき《ヽヽ》になってビール箱の前に坐りつづけた。  芳枝が猫のことなど全く忘れた顔で、鼻唄《はなうた》交りにせっせと|ぼろ《ヽヽ》を引張り廻している様子は自然私をも快活にさせたが、余りなその豹変《ひようへん》振りはどうにも病的に思われ、どこまで信用していいのか迷わぬわけにゆかなかった。 「芳兵衛、君ヒステリーじゃないのか」 「そうかしら。自分じゃ判らないけど——」 「これゃヒステリーだよ。先達《せんだつて》うちの悲観振りとこの頃の暢気《のんき》さ加減は、少し極端過ぎるからな。妊娠の所為《せい》だね。それとも貧乏の|せい《ヽヽ》か」 「だけど、ヒステリーって、あれ、大人《おとな》のなるものよ」 「おい、しっかりしてくれ。君だって立派な大人だぜ。子供生むんじゃないか」 「あ、そうか」と頭を押えている。  ——やがて、とにかく子供は生れた。その時の模様を書いた小品があるので掲げることにする。     或出産  こんな出産もある。僕の家でのことだが——。  生れる直前まで一度も産婆に見せなかった。金が無くて、見せること出来なかった。宿の女の人に聞いたり、婦人雑誌の附録の「安産の|しおり《ヽヽヽ》」を諳記《あんき》する程読んでの自己診断で、もう十日も経《た》ったら危《あぶな》いと云っていた。それが山口先生(W学校時代の恩師)の告別式の日だ。その翌日、僕はまた金策か何かでほっつき歩いて、夕方六時過ぎに帰って来た。すると、うす暗い中でうんうん唸《うな》っていた。「変に痛い」と云う。「いつ頃からだ」「三時半か四時頃でしょう。あいた——」「弱ったな」「五分置き位に、ひどく痛むの」切れ切れに云う。暫《しばら》く迷っていたが、「一寸《ちよつと》待てよ。俺大観堂まで行って来る。直ぐだから」「じゃア、何か、甘いもの少し買って来て」「よし」と駈け出した。大観堂(古本屋)の細君をつかまえて様子を話すと、細君が眼をむいて「そりゃあなた、生れますよ、お産ですよ。まアなんて——」と今更僕を見て変な顔をした。「弱ったな。直ぐかしら」「四時頃からって云うと、まだ二三時間は大丈夫でしょう。とにかく早くお産婆さんに来て貰わなきゃ駄目よ」「弱ったなア」と云ったが、ぐずぐずしていられず駈け出し、途中で甘いもの買って家へ飛び込んだ。「おい生れるらしいぜ」「そオかア、どうりで」「産婆呼んで来る」「だって何も支度《したく》してないもの」「なアに平気だ」直ぐ近所に病院があり、妊産婦お預りします、などと看板にあるのを知っていたから、僕は其処《そこ》に入って行った。産婆に一寸来てくれと云うと直ぐ承知し、一緒に家へ来た。産婆はエボナイト製の管を出し、一方の端を女房の腹にあて、他の端を自分の耳にあてていたが「大変お丈夫です」と云った。僕は急にニヤニヤしだした。「直ぐですが、ここでなさいますか、それとも——」産婆が、がらんとした薄汚い六畳を見廻した。「何しろこの通りで、それに思ったより急なんで、何もしてないんです。出来ればお宅へ連れてって頂きたいんですが」「はア。では直ぐ——妾《わたし》は一足お先に行って、支度して置きますから」「お願いします」産婆は帰って行った。有難いぞと僕は手を叩《たた》いた。「抱いていってやろう」「歩いてく」「大丈夫か」「大丈夫、うわ痛いや」と立ち上ったから肩につまからせ、病院まで約一町の道を歩いた。産婆に渡すと僕はまた出かけた。大観堂へ行くと、主人は居ず細君は湯に入っていると云う。困ったと思ったが、風呂場の辺へ行き、大きな声で「生れるんですよやっぱり」と怒鳴った。中から細君の返事があったから、「十円貸して下さい、度々で悪いけど」と云うと、店の者にそう云って持ってってくれと云っている。借りると、やれやれと腰を下して煙草をふかした。それから高田馬場の方へ行き、或店で産衣《うぶぎ》を買った。まだ出来ていなかったのだ。麻の葉模様の安物で、青、赤と両方あったが、赤い方を買った。その包をぶら下げて、病室に入ってゆくと、様子が変だ。「買って来たぜ」と包を振って見せると、女房が弱々しく笑って「生れちゃったア」と云った。「へえ、呆《あき》れたね」「うふふ」「なアんだい、へえ、呆れたもんだねえ」僕の大声に、隣室から産婆が「御安産でした」と云った。僕はそっちへ行って見た。すると割に人間らしい顔をしたのが、目をつぶっておとなしく湯をつかわされていた。背の高い奴だ、と第一に思った。それから、ハハア女か、と思った。「どうも有難う、本当におかげ様で」「いいえ大変御安産で——赤ちゃんも御立派です。八百五十匁おありです」「助かりました」「おべべ丁度間に合いましたね」「いや」と僕は頭に手をやった。  女房は折角買った甘いものの食えぬことを産褥《さんじよく》でしきりに残念がっていた。  後《のち》、Yに、産衣を買いに行った話をしたら、Yは反《そ》って了って「そりゃひどい。そんなのはないよ。それはいけない。何ぼ何でも君、そりゃひどいよ」と云った。  W学校の国文科を出た連中でやっている短歌中心の雑誌がある。私もその仲間だが、歌が出来ないので、時々小品文を出すことにしている。これはそのうちの一つで、相当に|みじめ《ヽヽヽ》なことを割に暢気に書いてのけている点、いかにも苦しみや悲しみに感性の鈍って了った私らしく、走り書のものだがここに使うことにした。     四 「お産なんて、大したことないわねえ。あたし、歯の痛い方がよっぽど厭《いや》だなア」 「変だね。そんなことはなかろう」 「ほんとよ。どんなヒドイんかと思ってたわ。——急でしょ、まだまだと思ってたのが却《かえ》ってよかったのかも知れないわねえ」 「なるほど、それはある。確かにそうだね。何しろよかった。——どうだおい芳兵衛、何とかなったじゃあないか、ええ?」 「うん、なった」と明けっぱなしの笑顔をする。  産室は六畳で、次の間がある。私は宿で寝るつもりだったが、生れてみるともうそう云う気は無くなり、自分の夜具を運んで赤ん坊の側《そば》に寝ることに決めた。産婆は次の三畳にいて、夜中でも時々見に来てくれる。 「女の子でがっかりした?」と芳枝が云った時、私は全《まる》でそんなこと忘れ切っていた自分に気付いて少なからず驚いたのである。 「いいやちっとも。土台あんなひどい目に逢わせて来たのに、手足の指もちゃんと五本ずつで、その上こんなに元気で生れるなんて、しかも悠々《ゆうゆう》とこんな病院で寝ていられるなんて、少し仕合せ過ぎるよ。この上|慾《よく》が云えた義理かね——俺は白状すると、少少自分勝手だけど、生れてみると女の児の方が好いような気がするな」 「そうお! いやアねえ」と口をとがらせるのだが、簡単な芳枝は、私からそう云って貰った嬉しさをどうにも隠し切れない。  私は毎日朝から金策に駈け廻っていたが、退引《のつぴ》きならぬ気持に押し進められ、心当りへ向ける足は、いつものように渋ることはなかった。  五六日|経《た》った午後、連日の労《つか》れから、私はいつか座蒲団《ざぶとん》を枕に転寝《うたたね》をした。そしてこんな夢を見たのである。  ——芳枝が赤ん坊を抱いて乳を呑《の》ませている。私はそれを覗《のぞ》き込むようにした。 「危いわ、煙草の灰」 「そうかそうか」私は煙草を持った手をうしろに廻すと、また覗いた。 「ちゃんと吸うこと知ってんのよ」 「うん」  暫《しばら》くして芳枝が、 「赤ちゃん、そっくりねえ」と云った。 「さあ、まだ似るも似ないもありゃしまい。だが、俺に似るといい子になるぜ」私は笑った。すると芳枝がいかにも蔑んだ口調で、 「何云ってらしゃるの。あの猫にそっくりじゃありませんか。判らないの」と云った。私はしまったと思った。赤ん坊が猫に似ていることは知っていたのだが芳枝がそれに気付いているとは思わなかった。とにかくごまかせるだけはごまかそうと思い、わざと荒荒しく、 「おい冗談はよせ。冗談もことによるぞ」 「冗談? いいわ、覚えてらっしゃい」そう云うと芳枝が口惜《くや》しそうに私を睨《にら》み付けた。私はここだと腹に力を入れて芳枝を睨み返した。何しろ芳枝を睨み伏せて了わなければいけないのだと、それだけは判っていた。だが、「何です、あなただって猫の癖に!」鋭くそう云われて、ああとうとうばれたかと思った。そして目が覚《さ》めたのである。——私は一つ深い息をして起き上った。見ると、芳枝が今の夢をそのままの恰好《かつこう》で赤ん坊に乳をやっているのだ。一寸《ちよつと》|どきり《ヽヽヽ》としたが笑っている芳枝に私も笑い笑い夢の話をした。すると黙ってきいていた芳枝が、変に顔を歪《ゆが》めて、 「それ、夢じゃあないわ」と云った。 「なに」 「よくごらんなさいな」抱けと云うように両手で突き出した赤ん坊は、確かにあの年寄りの猫だった。私はウッと呼吸《いき》の止った感じで、今度は本当に眼を覚ましたのである。  窓の下半部は磨《す》り硝子《ガラス》で、透明な上部からは青空が眺《なが》められる。白い雲の動いているのも判って、眼を覚ましたことに自信はあったが、何となく芳枝達を見るのが不安だった。私は身体《からだ》中に気持の悪い汗を感じながら、眼を大きくしたまま暫くじっとしていた。 「目、覚めたア?」と芳枝の暢気な声がした。 「ああ」私はまだ油断せず「俺、うなされやしなかったか?」とそっちを向かずに云ってみた。 「一寸何か云ってたようだけど——夢見てたの?」 「ああ、柔道の試合でうんうんやってる夢を見た」云い云い、万一「うそおっしゃい」とでも来たらことだと思ったが、なあにと云う気持で私は起き直り芳枝を見た。赤ん坊は、昨日から起き上れるようになった芳枝の膝《ひざ》でまだ見えぬ眼をポカリと開けている。私は急に莫迦々々《ばかばか》しくなった。  翌る日の夕方、出先から戻って廊下を部屋に近づくと、芳枝の高い笑い声がきこえた。相変らずな奴だと微笑しながらドアを開けて、私はそこに妙な光景を見た。毎日搾っては捨てている芳枝の余り乳が小皿に移され、生れたばかりと見える仔猫が舌を鳴らしてそれを吸っているのである。私は何も云うことが出来ず、突っ立ったままそれを見下ろしていた。 「お帰りなさい」芳枝と若い看護婦が同時に云った。 「可愛いでしょ。これ、昨日貰って来たんですって。とてもおいしそうに呑むのよ」 「うん」我ながら気の無い声も出るものだと思った。 「どうせお捨てになるので、勿体《もつたい》のうございますから玉ちゃんの御馳走《ごちそう》に頂きました」 「ねえねえ、初枝ちゃん、玉ちゃんと乳姉妹よ。猫と乳姉妹なんて面白いわね」  看護婦と一緒になってはしゃいでいる芳枝の顔が、この上なく無神経に見えた。その顔を暫く眺《なが》めていたが、やがて「やれやれ」と大声を出すと私はそこへ寝そべった。酷《ひど》く可笑《おか》しくなって、なかなか笑いが止まらず弱った。 [#改ページ]   暢気《のんき》眼鏡《めがね》     一 「ちょっとオ」とか「これよ、これ」とか云う芳枝の声を、「うるさいな」と思い思い私ははっきりせぬ夢から抜け切れずにいた。が、直ぐ覚めた。朝だ。芳枝が、薄眼で呆然《ぼんやり》している私の鼻先に何か光るものを突きつけて、 「これ」 「何だ」見ると金色の妙な恰好《かつこう》したものが、私には何か判断がつかなかった。 「これ、一寸壊《ちよつとこわ》れてるし、あると歯が痛いから除《と》っちゃった」  入歯の金冠だなと思うと、私は全く眼が覚めむっくり起き上ろうとしたが、止めた。ちらと芳枝の顔を見やり、夜具を鼻の辺まで引き上げ、又眼を閉じて了《しま》った。私には一寸何も云えなかった。「態《ざま》を見ろ」と何かに云われていると感じ、「判《わか》ったよ」と反撥《はんぱつ》的に頭の中であたりを見廻すのだった。するといろいろの顔が浮ぶ。「死ね」と泣きながら云った母。「元の兄さんに返って下さい」と手紙を寄越した妹——すでに四年も見ない顔だ。一月程前、雑司ヶ谷にいる芳枝の姉に、自分達のことを事後承諾させに行った時、「承知不承知なぞとわたくしにはもう——。ただ、あれは一人の妹ですから、先先《さきざき》人並の生活だけはさせてやって頂きとう存じます」と云われた、その姉の教師らしくないやさし気な眼付き——「もういい、もういい」と苦笑いするのを追いかけて「俺も居るぜ」と顔を出したのは友人のSだ。一週間程前、金借りに行ったが度度のことで断わられ、私がふくれ面しているとSが改まった顔付になり、「君はどうしても僕とこから持って行くつもりかね」とゆっくり云った。私は全然居直った形でSを見返すと、「為方《しかた》がないんだ」とふてぶてしい声を出した。Sは、蒼《あお》い顔で暫《しばら》く黙っていたが、「じゃあ、為方がない」と云うなり立ち上ると押入をガタンと開け、行李《こうり》の中から和本二三冊取り出して私の前に置いた。 「足りまいが、これをどうにでもして貰《もら》おう」  手にすると、国芳あたりの春画本だ、私はそれを膝《ひざ》の前に置き、暫く考え込んだ。やがて割に平気な顔で「有難う」と云った。が云って了うと、不意に激しい感情に襲われた。図太い張りが消し飛んで了ったのだ。 「僕は、どんなに恥を掻《か》いても、今、為方がないんだ。絶対に今金が無くてはいけないのだ。出来れば泥棒でもする。君に云ったところが判りっこはない、君がそっくり今の僕になって見ない以上は。だから、腹でどんなに罵倒《ばとう》されていようと僕は関《かま》やしない。その覚悟は初めからしているんだが——」云っていると、眼前のSを忘れ、自分だけの感情から意気地ない泪《なみだ》を浮べて了った。Sがその時どう云う顔をしたかは覚えぬ。後で碁を打ち、双方気持を取り戻して別れたのだが……。  芳枝が、 「これエ、要《い》らないんだけど——どうする?」 「どうするったって——」と向き直ったが、この場合怒った風をする外ないと思われ、 「なぜ君はそんな莫迦《ばか》なことをするんだ。その歯、そんなにして、当分|治《なお》せるあてはないじゃないか」怖《こわ》い顔をして見せた。芳枝は気押《けお》された様子だったが、まだ私の気持をうかがう風は捨てず、独言《ひとりごと》のよう、 「これ自分で売りに行って、ドラ焼買おう」と云った。私は返事をせず、尚《なお》もみじめな自分の気持を小突き廻していた。昨日の夕刊に、或時計店の広告ビラが折り込まれていて、金|大暴騰《だいぼうとう》、一匁に付純金いくら十八金いくら、今が売り時、とあった、それを見ての思い付きに違いない。自分の喜ぶことを予定している様子なのが気にくわなかった。或はそれはも一つ屈折して、自分の気持を軽く運ばせようとした芳枝の心|遣《づか》いかも知れぬ。それなら更に不愉快だと思った。二十やそこらの子供にいたわられては堪《たま》らぬ。やはり持前の単純|暢気《のんき》さから、金無くてむっとしている自分を喜ばせる気でやった事だろう。この方なら気に喰《く》わぬながらも、この場合負わされる所まだ多少軽くて済む。——然し可哀そうな奴だ、と主我的な気持に余裕が出て来た。そう思うと、気持はずっと芳枝の方に流れ、私はまた違った意味で弱り切った。顔付を柔らげて、 「無い方がいいんなら除《と》っちまってもいいけど、あとどうかな。だけどもう片方のやつはこわれてないんだから、また俺の寝てる間に除ったりしちゃ駄目だぜ、今度は本当に怒るよ、いいか」 「うん」と急に嬉しそうな芳枝の顔を残し、も少し寝ると夜具を頭からかぶった。  午《ひる》近く行きつけの質屋へ出かけ、金冠を見せると十八金七分と云うことで、四円いくらかになった。溜っている利息にくれと云うのを持ち帰って第一に米を買った。嘗《かつ》て聞いた、貧乏し切って何もかもなくなり、金歯を入質して米を買ったが、それを喰う段になり弱ったという笑話が苦苦《にがにが》しく憶《おも》い出された。     二  芳枝と知り合う前のことを簡単に書く。  三年程一緒にいた妻Eと、私に収入のないことから不和になり、加えて郷里《くに》の母との間の鬱積《うつせき》した関係が極度に達した時、何もかもが面倒になって私は不意にN市へ走った。N市には私の尊敬する芸術家が居るのだ。N市へ行ってその人の顔を見、声を聞いたら切れそうな呼吸《いき》も落ち付こう、ただそれだけの望みしかなかった。Eは行く先を知っていたが、郷里では知らず、のち使の者がEの所へ来て判《わか》った。母はあきらめ、一つには行き先が先|故《ゆえ》多少私の気持も考えたらしく、後《あと》追うのを止めた。云い忘れたが、私は父が早死した家の長男で、老いた母と三人の弟妹を世話しなければならぬ身の上なのだ。家計のやり方に就《つい》て母から不服を云われ、言われて見て自分も悪い点を認めたが、母がそれのみ責めたことから私はつむじを曲げた。そして現実に家の経済は破局に近付き、それを捨て置いてのN行だった。  N市に居着いて、気持では郷里のことから可なり離れることが出来た。行く処まで行ったからだ。が、妻に関してはまだ処理し切れなかった。N行に際し、私はKと云う友人に「あとを万事お願いする」と云い置いたのである。それを云う時、卑怯《ひきよう》かな、と多少思った。が、止《や》むを得ないのだとも思えた。Kは私にもEにも古い友だが、一時互の居所の距《へだた》りから行き来|間遠《まどお》の頃があった。その間に私とEとの間はひどい不和になっていた。Eが以前やっていた商売をまた始めると云い出し、私も賛成して市内の旧居に帰ってからは、Kもよく来て世話を焼いてくれたが、第一に私とEとの不和に驚き心配してくれた。粗暴な私は、すでにその頃口で云うことを止め、Eをよく殴《なぐ》った。或時はEの左鼓膜の破れたのに気づかず、翌朝鏡に向って、かわいた血に驚いたことがあった。KはEに同情した。それが段々と育って行き、Eもそれを感じ始めたと知ってから、私は余りEを殴らなくなった。そして、私とEとの間は冷え切って了ったのだ。  N行の支度《したく》のことでEと気まずい口をきき合った時、私は顔は真面目《まじめ》に、冗談らしい調子で、「俺が行って了えば勝手にしていられるんじゃないか、まアふくれるな。俺は鉾《ほこ》をおさめるぜ」と声だけで笑った。 「何おっしゃるの」Eは云ったが、私は云う顔付を見ようともしなかった。Kにはああ云ったし、これで片づこう、そう思った。  N市の、現実に妻の顔見ぬ生活では、Eに対して巻き切ったと見えた私の気持にも、予想通り多少のゆるみが来た。Eを哀れな女と思えた。が、二三カ月して私の動揺も静まった。八カ月目に帰京し、直ぐ妻との間を決算した。EはKの妻になり、郊外に家を持った。     三  一人になって一年後、昨年の夏、K市から始めて東京に出て来た芳枝と知り合い、一カ月のつき合いの後、事実上の結婚をした。  私に母や弟妹を捨てさせ、妻を去らしめたのは直接には金の問題だが、根本は私が小説を好くことにある。私としては普通の世渡りの成り難い程元来偉くも莫迦《ばか》でもないと密《ひそ》かに思っているのだが、いつか小説好くことの深みに陥り、父の遺産が無くなって気付いた時は遅かったのだ。世を渡る術《すべ》の足場は全《まる》で失い、余裕あるころその方向への心構えは捨てて顧みなかった故、あらゆる意味の空手《からて》で、追われても走る気力のない野良犬《のらいぬ》、先《ま》ずそんなものだ。一人になった時、それでいいと思った。もとよりなかなか気に入ったものが書けるとは思わず、書けてもそれで世間並にやって行く望のないことは前からの覚悟故、自分一人で困っていれば済むと気楽だった。再び結婚はすまい、腐れ縁の古女房が居るのだと小説のことを考え、事実N行以来書けそうに思えて来たのであった。  芳枝に好意を持ち、芳枝の肚《はら》も判った時、私は当然|躊躇《ちゆうちよ》した。然し、それを飛び越えて了った。芳枝の|すなお《ヽヽヽ》に示す感情の美しさに挫《ひし》がれたのだ。が、一方、またこの女を苛《いじ》めるのかと自分を咎《とが》めぬわけにゆかなかった。その気持は、芳枝が若く、何も知らぬ暢気《のんき》な娘と思えた故、強く来た。     四  居る所は汚い下宿の六畳で、机、本箱、空箪笥《からだんす》を並べ、コンロを廊下の隅《すみ》に置いて自炊生活だ。宿主は、為事《しごと》が片付けば纏《まと》めて払うからとの私の言を信じ切れぬらしく、食事持って来ることを断わったのだ。宿には相当額の宿料が溜《たま》っていた。自分は今、何もせずにいるのではないから少しは余裕を見せ、落ち付いて為事をさせてくれぬものかと、多少腹が立った。いくらでもと入金をせめ立て、食事を止《と》めてその日の米を得るためにあちこちと駈け廻らせるのでは、結局為事は遅れて互の損ではないか、そう云ってみても、「うちも困っていますから」と相手にしない。いらだちと奔走とで、事実なかなか為事は捗《はかど》らなかった。その為事は或全集物の一部で、遅れる程損であることはよく判っていたのだ。     五  ひどい生活の中で芳枝が割に暢気でいることは、現在助かると思いながら私としては一方絶えず追い立てられる気持だった。この暢気さが何時《いつ》まで続くか、ゴム糸が延び切ったらそれでおしまいだ。そうならぬうちにと、平気な顔の奥で焦《あせ》り続けている私のそばで、暢気な芳枝は暢気なお饒舌《しやべ》りばかりする。殊《こと》に好んで幼時の話をする。今の惨《みじ》めさに追われて意識せぬながら憶《おも》いが暢気だった昔に返るのかとも思われ、私は気が沈むのだった。云うことは全《まる》でたわいなく、多くの場合|相槌《あいづち》ばかりで私は何も聞いてはいないのだが……。  ——五つの時、赤い着物を着ていた為、七面鳥に追いかけられた、それ以来その着物を七面鳥の|おべべ《ヽヽヽ》と云った。花を取ろうとして河へ陥《お》ち、通りかかった郵便配達夫に助けられた、その時の着物が河の|おべべ《ヽヽヽ》。新井白石は三つの時、屏風《びようぶ》に天下一と上手《じようず》に書いた、と幾度も母親から聞かされ、張り立ての襖《ふすま》に大きくそう書いて母親を呆《あき》れさした、六ツ。——その翌年父親に死なれた。「……今生きていると七十。あたしの覚えている恰好《かつこう》だって、おじいさんだった。碁を打って、赤い毛氈《もうせん》の上で字を書いて、夜はお酒を呑《の》んで、うすいお膝《ひざ》をしていつも坐ってた。おかしいことがあるの」——上《かみ》、下《しも》と、二つの便所があるのに、父親は庭の隅《すみ》に置かれた桶《おけ》に小用を足す。四つ位の芳枝が必ずついて行ってそれを覗《のぞ》こうとする。父親は叱って、やがて帰って行く。いつもいつも桶に浮ぶ泡《あわ》が不思議だ。「——ええそれ、お父さん肥料にすんのよ。庭の隅にほんのちょっぴり茄子《なす》と胡瓜《きゆうり》を自分で植えては育てていたの。もう情けなアいのが、数えるほどっか生《な》らないの。そのこやし、自分の|おしっこ《ヽヽヽヽ》でないといけないんだって。他人《ひと》のは汚いんだって——」厭《いや》なお父さんと芳枝は笑いころげるのだが、私には只《ただ》何かしゃべって笑う芳枝が可笑《おか》しかった。私は芳枝のおしゃべりを素通りさせ、勝手に自分だけの思考を追う。次のようなことを憶い返している。——     六  二カ月程前、急な宿料の催促に居たたまれず、この宿を逃げ出したことがあった。金策に出て来ると立ち上る私をつかまえて離さず、一人|此処《ここ》に居るのは厭《い》やと泣き出した。連れて出かけたが、今日いくらでもと云うのがもとより出来るあては無く、夜になった。宿の方向へはすねた馬車馬のように動かぬ芳枝を連れて、或友人の下宿へ行った。  私だけが上ると、三階の汚い四畳半で、若い貧乏な友人が、「やア」と起き上った。今夜泊めて貰《もら》いたいと私は云った。 「いいとも。芳枝さんは?」 「玄関にいる。あいつも頼む」 「ああ。いよいよ夜逃げか」 「そんな形だが、荷物は一つも持ち出してない。そのつもりでなかったんでね」 「明日行って、知らん顔で一寸《ちよつと》したもの持って来るんだね。——とにかく下へ行って蒲団《ふとん》借りて来よう」 「じゃア、序《つい》でに芳枝に上れって云ってくれ」 「ああ」と降りて行ったが、暫《しばら》くして戻って来ると、妙な顔で、芳枝がいない由云った。どうしたことか見当がつかず黙っていると、 「捜して来ようか」と友人が多少せき込んで云った。あいつ大分興奮していたがと思い、私は一寸《ちよつと》不安になった。が同時に何となく腹が立って来た。 「そうだね——今にやって来るだろう、他に行く所はなし……」考えていたが、やがて三階の窓際《まどぎわ》に立つと私は十二時に近い真黒な外に向って、 「芳兵衛、早く来ないか。来ないと、もう知らないぞ」と怒鳴り、思い切りの大声で「莫迦《ばか》」と云った。然し、返事はなかった。前の原を隔てた或大学の野球部合宿の建物が闇《やみ》の中から「莫迦」と木魂《こだま》を返して来た。私はひどく腹が立ち、自分の顔の蒼《あお》くなるのが判った。友人が、 「——然し、他に行くところがないんだから尚《なお》……」云いかけるのを、 「いいんだ。癖になる、いよいよ来なければそれでおしまいさ。とにかく寝ようか」 「寝ようか」友人は芳枝の床もつくってくれた。それを見ると今更に困ったと思った。  三十分程して、階段を上って来る音を聞き、私には芳枝と判った。大跨《おおまた》の足音が障子の外で止り、「今晩はア」間のびした声だ。「どうぞ」答えながら、友人が起き上った。腹の底に湧《わ》き起った安堵《あんど》の気持を圧《お》しつぶして、 「どこをウロついていたんだ、莫迦」私が云うと、「ううん。ここ開けてエ」と足で障子をガタガタやっている。友人が開けると、 「今晩はア。ああ重かった」両手にかかえた風呂敷包みを、ドサリと置いた。 「何だそれは」 「着物に寝衣《ねまき》に枕掛けに毛布に、それから——」と包みを開けにかかった。 「呆《あき》れたね」私は丁度こちらを向いた友人の顔を見た。友人は変に目を光らせ、 「うむ」とうなるような声を上げた。そして、 「君どうだこれは」と私を見た。私は或感じに迫られたが、笑って、 「こいつは只《ただ》暢気なんだよ。——まあ、いいや、持って来たものなら、丁度間に合う——」 「持って来ちゃいけなかったの? だってこんなもの、清水さんとこにないでしょう、余分」 「ああ、持って来てよかったよ、重かったろう」 「重いのは平気だったけど、もう夜中でしょう、随分|怖《こわ》かったわ、ここへ来る道」 「じゃア君、寝よう。今日は疲れた」私は真先に横になった。芳枝は持って来たものを、これ清水さん、これあなた、これあたしと分け、直ぐ寝支度《ねじたく》にかかった。やがて横になったが、暫くすると|いびき《ヽヽヽ》を立て始めた。  私は黙って天井を見ていたが、疲れながら一寸眠れそうでなかった。やはり上を向いて眼は閉じている清水も同じらしいと思っていると、彼が上向いたまま、 「君は、暢気だ暢気だと云うが——」と云った。 「それゃ、それだけで片付けてはいないよ。然し暢気で簡単坊主なことは事実さ。只それだけに僕としては尚のこと——何と云うかなア」 「若いんだし。……何とかして君の為事《しごと》を早く仕上げたいもんだよ。刻下の急務はそれだ」 「そうなんだ。それがねえ、今の僕は——碁や将棋で後手後手と廻っていじめられる、あれだ。何とかして先手さえ取れば——」 「うん」  暫くして清水も寝入った。  二三日|経《た》って、清水の隣室が空いた。夜具付きで借りることにし、私達はそこへ移った。  窓の下の広場は三つに仕切られ、野球部の合宿に面した側は全くの空地で学生や子供達の小さな球場になり、某美術学校に面した側は、テニスコートとベビーゴルフ場だった。或時、清水の部屋から二人の学生の球《たま》投げを眺《なが》めていたことがあったが、学生は清水の知人らしく、我々を見付けると、グローヴを高く上げて見せた。 「やろうと云うんだが、どうだ。道具はある」清水が腰を浮かすので、出かけることにした。芳枝もついて来た。  私はそう云うものを手にするのは十年このかた無いこと故、強く投げると肩を痛くすると思い、ミットを持つ事にした。然し、この遊びで屡々《しばしば》怪我した経験ある私は、受ける方でも臆病で手が延びず、落球やパスボールばかりするのだ。すると見ていた芳枝が、 「下手《へた》下手《へた》。見られん」と国言葉で云った。 「生意気云うな。やって見れば楽じゃ無いんだ」  出来ると云う故、冗談にミットを渡すと、右へはめかけたのを左になおし、皆の方を向いて構えた。皆笑って相手にしなかったが、試《ため》しにと清水が投げたのを正確に取った。球はスポンジでなく、本ボールと云われる固いものだった。私もグローヴをはめ、二三べん投げて見た。 「冗談じゃないね。君よりうまいぜ」清水が真顔で云った。私もそう思っていたところなので、「おかしな奴だな、オイ、これやったことがあるのか」訊《き》くと野球はしたことないが、学校でバスケット・ボールの選手だったと云う。多少安心して、少しずつ強い球を送って見たが平気故、今度は強いぞと力をこめて投げるとそれも取った。殆《ほと》んど落球しなかった。  私は不図《ふと》気付いた。芳枝は妊娠しているのだ。失敗《しま》ったと思い直ぐ止《や》めさせ、部屋へ帰って休めと云いつけたが、不服らしい顔付きだ。皆に知れぬよう腹へ手をやりその恰好《かつこう》をして見せると、頭を手で押え、直ぐ帰って行った。  やがて私達も宿に帰った。清水の無駄口を聞き流していた私が、 「縮尻《しくじ》ったよ。こいつが暢気すぎたんだ」云うと、その調子から清水も、 「何だ」と真顔になった。私の意地の悪い眼付きを浴び、芳枝が妙な顔していた。 「子供が出来てるんだ」 「そうか、それは——」芽出度いとも弱ったろうとも云えず、一寸間を置いて「悪いことをしたな」 「今丁度大事にしないといけない時期らしい。こないだこいつが何かを読んで、自分で云ってたばかりなんだ。俺もうっかりしていたが、第一本人が注意しなけりゃいけない。もうお転婆は止《よ》すんだぜ、いいか」 「うん」と情けない顔だ。  夜、芳枝は常の通り直ぐ寝付いたが私はなかなか眠れず、隣室の清水の、何か頁《ページ》を繰る音を聞いていたが、やがて其処《そこ》へ出かけて行った。  清水はバットに火をつけ大きく吸って吐き出すと「ふふふふ」と笑い、「今日はなかなか演じたね」と云った。 「演じた。然しどうもおかしな奴だよ」云うと私も可笑《おか》しくなり、一寸笑いが止まらなかった。 「盲者蛇に怖《お》じずてのはあれだね」と球投げの事を云い、何事もあれだとまた思った。少し書きにくいが書くと、妊娠についてもそれが云えるのだ。今子供が出来る事は何よりも困る故、芳枝にも、その事を云い、条件が整うまでとして、或方法によることを承知させた。それが、腹からの承知でなかったのだ。或時芳枝が密《ひそ》かに用具を不完全なものにして置いたのを私は気付かなかった。後で不審に思い、或はと問い詰めると、どうしても欲しくて、と泣きながら詫《わ》び入るのだった。私は考え込んで了《しま》った。やがて、「判《わか》ったからもういいよ。泣かないでいい。これからはあんなことはなしにするからね。その代り、立派な赤ん坊を生むんだよ。いいか」と、私にしては柔《やさ》しい調子で云った。芳枝は泣きじゃくりながら強く大きく合点合点をした。——私はその肩を抱いてやった、——一寸人に云える事でなく、清水にも話す気はなかったが、 「子供なんかつくるって法はないんだ、我我が」とだけ云った。 「それゃ為方がないやね」 「それよりも先《ま》ずあいつとしたら、僕みたいな男と一緒になるのが向う見ずだよ」 「その間《かん》の|いきさつ《ヽヽヽヽ》はともかくとして」清水が笑い笑い「はたから見たらそうも云えるだろう。ところで我我にとっちゃ向う見ずや物好きがいてくれないと困るかも知れないぜ。一生世話のしてくれ手がなかった日にはね。尤《もつと》もこれは別問題だが」 「そうさ、別問題だよ」話に喰い違いを感じ、私はあまり口をきかなかった。暫くして部屋に帰り、寝た。  二三日した午後、往来で知人に逢った。久美浜と云う新聞記者をしている男の細君で、好きからマネキン倶楽部《クラブ》を経営し、一日中忙しそうに飛び歩いている女だった。 「よオ」と、それが持ち前の男のような口をきいた。 「よオ」 「よオじゃないよ。わしゃ随分捜した。一体全体あんた方、今どこにもぐってるのさ。——一寸そこいらで休もう、往来じゃア話が出来ない」  附近の茶寮に入り、久美浜シナエから芳枝をマネキンに頼みたいと云う申し込みを受けた。マネキンなどと美貌《びぼう》が元手の為事《しごと》、芳枝にその資格あるとは思えず、向うが乗り気なだけ私は気遅れがした。 「僕としちゃア、金は欲しいから異論はないけど——あれで出来るのかねえ」 「なに、そう云ったもんでもないよ。あたしが一寸《ちよつと》ぬったりなでたりすれゃ、あれで結構使える」 「どうだかねえ」  いろいろ云っていたが、結局本人次第と云うことになった。私はそのまま用達《ようたし》先へ出かけ、留守にシナエから芳枝に話して貰《もら》うことにした。  三時間程して夜になり、私が帰って見ると芳枝がぼんやり部屋の真中に坐っていた。 「シナさん来たろう」 「うん」 「引受けたか」 「断ったけど、頼む頼むって云われるし、それにお金欲しいもん」 「出来ればやってくれよ。身体の方一寸心配だけど——シナさん気がついてたかい、ここ」と腹を指して見せた。 「ううん。あたしの、割に小さいから、誰も気がついてないわ。なまけなまけやれば、楽な為事だって」 「そうか。それじゃあひとつ、なまけなまけやってくれ。なに、これも経験だ」 「やるわ。だけど、恥かしいな、きっと」 「なアに、|でく《ヽヽ》の棒や石ころが大勢居ると思ってりゃいいんだ」すると芳枝は、 「シナさんもそう云った」と笑いこけていたが、 「これだけ置いてったわ」と金を出して見せた。衣類一通りは芳枝の物で間に合うとのことで、金は質受けの為《ため》前金として置いて行ったのだ。日本橋のS屋に明日から向う一週間、K正宗の宣伝と云うことだった。  翌朝、髪結い、化粧、質受け、と済んだが、帯を締める段になり、弱った。手鏡一つしかない上に、介添が私|故《ゆえ》一向|埒《らち》はあかないのだ。後《うしろ》の恰好、芳枝がどうひねりまわしても私の目にさえ変で困ったが、投げ出しは出来ず、いい加減なのを「それで結構、中中よく出来た」と叩《たた》いて見せた。暫く後手に撫《な》で廻していた芳枝が、今日は止めると泣き出した。泣かれては化粧が台無し故いろいろなだめ、下宿の主婦の忙しい中を頼み締め直して貰ったが、十時までにと云うのが九時半を過ぎて了った。車を拾うため道ばたに立っていると、人がジロジロ見てゆく。朝から盛装で厚化粧故無理ないとは思ったが、何か言葉を投げた者あった時、私はそいつをにらんでやった。こう云う姿で見る芳枝は私に始めてで、どこかよその堂堂たる背高女《せいたかおんな》と居るように思えるのだった。車が呉服橋にかかり、向うにS屋が見えると私はもう一度いろいろと注意を与えた。日本橋の交叉点《こうさてん》で下りた。 「落ち付いてやるんだよ。いいか芳兵衛。相手は石ころに|でく《ヽヽ》の棒だぞ」私は真剣に云った。声が大きかったらしく、あたりの人が見たが、気にならなかった。芳枝は高島田を重そうにうなずかせ、一寸笑ったと思うと急に私が今まで見たことのない取り澄ました顔付になり、電車|路《みち》を横切って行くのだった。丈《たけ》高く肉のしまった身体のゆったりした歩きかたを私は凝《じ》っと見据えていた。その時の私は、芳枝をあわれと思う心に珍らしく浸っておれた。私は少しも——自分自身にさえ取りつくろう気もなく、しおれた風で早稲田行《わせだゆき》の市電停留所の方へ歩き出した。  七日間を無事に務め、少しばかりの金を持ってこの宿に帰った……。     七  ——机に背を凭《も》たせ、ぼやけた薄眼の底に、尻《しり》を落す坐り方した芳枝の恰好を写していた。今から生れる児を自分勝手に女に決め、いい女名前と赤い着物のことしか考えはせぬ。何しろおかしな奴だ——。 「ねむたいの?」と芳枝が云った。 「いや」私は机から背を離した。 「何だ、そっちの方が眠そうじゃないか」 「でもないの。だってあたしの話、聞いてないんだもの。話さしといてずるいや」 「聞いてるさ。聞きながら一寸考えていたんだ」 「どんなこと?」 「めくら、蛇に怖《お》じず、と云うのだ」 「いやねエ。あたし蛇大きらい」  ところがお前はそうでもなさそうだぜ、と腹で微笑した。眼が開いたら——芳枝のかけた強度の「暢気眼鏡」もいずれ壊《こわ》れずにはいない、その時を如何《いか》に収拾すべきか——。 「あアあ、つまんないの」芳枝が両手を後についた。 「しゃべり草臥《くたび》れたんだろう」 「それもある、実は少しねむくもある」と坐り直し、両手で眼をこすっていたが、何と思ったか両方の上まぶたをくるッと引繰り返し、その顔を突き出した。 「これ出来るウ?」 「いやだな、何の真似《まね》だ。元通りにしちまえよ早く」 「随分|下手《へた》になったわ」云いながら瞬《まばた》きするとそれが直った。眼が涙っぽくなっている。 「あたしね、学校の体格検査の時いつウも自分で眼をむいてったの。順々に並んで行くのよ、あたしの番が来て校医さんが、しようとしてひょいと両手を上げると、これでしょう、やアこれはって云うのよ、いつウも。——だけどやらないでいると駄目、綺麗にいかないわ。やっぱり練習ね」 「そう云うものかねえ」私は憮然《ぶぜん》としてそんな返事をした。 『追記』 「暢気眼鏡」と云う題で短篇書くことを思いつき、直ぐ取りかかったが、半分程で筆が進まなくなった。暫《しばら》く放って置き、またかかって見ると、その時は更に気乗りしなくなっていた。テーマがぐらつき出したからだ。——女主人公の暢気さが次第に影をひそめ出したのだ。それは日常生活で必然的に「私」と云う男に影響した。「何故《なぜ》一気に書いて了《しま》わなかったろう」私は悔いたが、今更どうもならなかった。出来るだけ最初の頃の空気を作り、その中でとにもかくにも書きかけのものを仕上げる事に努力した。上掲のものがそれだが、結果はやはり不満だった。 「この暢気さが何時《いつ》まで続くか」そう危ぶんでいた状態が、知らず識《し》らずそれに眼を覆《おお》うていた私に、ごまかしのきかぬ程迫っていた。芳枝はもう沈鬱《ちんうつ》な女になっていた。口には何も云わなかったが、ふと見る眉《まゆ》の辺《あた》りにいやな線を刻んでいることがあった。  或静かな夜、突然こんな風に云い出した事がある。 「ねえ」 「なんだい」 「人間てね」 「なんだ、早く云え早く」せっかちな私はそう云う話し方が大嫌《だいきら》いだった。 「人間てね、死んで了えば何もかもなくなるのね」と早口に云った。 「そうさ、それがどうした」 「苦しいことも、悲しいことも?」 「そうだよ。本来東西なし、いずくんぞ南北あらんや」 「それなに? 麻雀《マージヤン》のこと?」 「——そうだ」 「あたし真面目《まじめ》にきいてんのよ。そんなのいや!」 「死んじまえば何もかもない」 「そう。そんなら安心だわ。あたし安心したわ」芳枝は実際に安心したような顔をした。私は多少|狼狽《ろうばい》した。 「然し、そう簡単には片付かないものでね」 「なぜ」 「まあいいや。君なんか、そんなことあまり考えない方がいいんだよ」 「そうときまれば、考えなくったっていいのよ」  十九まで気楽に育ち、漫然上京すると、いきなり私のような者にかかり逢う——芳枝にとっては何と云う悪い偶然だったろう。「どんな辛《つら》いことだって、面白いと思えば思えるからね。大したことはないよ。何でも来いだ」私自身は決して強がりを云っているのではない。父の死、上の妹の死、私自身の重病、大震災、銀行の破綻《はたん》。二十六までの四年間に打続いた災禍から、私の感性は鈍っているのだ。私は余り恐《こわ》いものがなくなった。只《ただ》面倒な事が一倍嫌いになっただけだ。それ故、何事も「ままよ」と直ぐ最悪の場合を予想し「いつでも来い」と身構えもせず寝そべっている。前書いた郷里の家との反目も、前の妻との絶縁も、その気持から、事の重さに比し割に手軽にやってのけた。そう云う私だが、ひどい生活に不平も云わず、私だけをたよりにしている芳枝を思うと、さすがに気が滅入《めい》るのだった。つべこべ云う相手には、正面から何でも云って了える。「私はこれから人非人になる」母にそう云った。が、無力な、柔順な相手には、それが出来ないのだ。  私の精神と肉体とは、只一つ、仕事に対する熱、その気持の張りで保《も》っている。私と云う存在のあらゆる慾望はその一点に凝結している。「怒った石」のような私と云うものは、自身でさえ一種のあさましさを感ずる程だ。だが、私からその慾望を引き抜いて了ったら、あとには|くらげ《ヽヽヽ》のようなものしか残るまい。目はかすみ腰は曲り、物を喰《く》う気もなくなるだろう。為事に対する慾望は、私が非力である為《ため》只空廻りしているに過ぎないが、とにかくそれは私と云うものの唯《ただ》一つの支柱だ。「凡《およ》そ生活あっての芸術だ」そんな事を口には云いながら、事実は本来を見失った形だ。「これではいかぬ」度度思いもしたが、今では諦《あきら》める外ない状態に陥っている。形容でも何でもなく、医者に見離された重病人だ。「心機一転」「豁然《かつぜん》大悟」そんな言葉も呑《の》みなれた薬のように何の反応もなくなった。結局私としてはこのままどこまでも押して行くより為方《しかた》ないのだ。間違っているとしても、こう云う間違った路《みち》に踏み込んだ男が、一体どうなるか、それを見|極《きわ》めることも一つの「何か」だと云えよう。 「芳兵衛、お前にはほんとに気の毒だ」  私は或時珍らしく真顔で云った。 「あなた本当にそう思う?」 「思う」 「それならいいのよ。あなたがそう思ってくれれば、あたしそれでいいの」と明けっぱなしの笑顔をした。 「こんな奴をいじめて——あアあ」と私は腹でうなった。「こんなことをして小説書いたとて、それが一体何だ」そう思うと、反射的に「いや、俺はそうでなければいけないんだ」と突き上げるものがある。「暢気眼鏡」などと云うもの、かけていたのは芳枝でなくて、私自身だったかも知れない。確かにそう思える。しかもこいつは一生壊れそうでないのは始末が悪い。そこまで来て私はうすら笑いを浮べた。 [#改ページ]   芳兵衛      ——或は、習俗について——  芳兵衛、というが、これはうちの家内で本名は芳枝、年は二十二の、身長五尺二寸に体重十四貫だから先《ま》ず大女の方だろう。ところがこれが身体《からだ》に似合わず大の臆病者《おくびようもの》だ。臆病であるばかりか僕の眼からは相当に思慮足らぬ方で、人前に云わでものことを云ってのけ、気に入らぬことあれば誰の前でも文字通り頬《ほお》をふくらし、嬉しいと腹の底をそのまま写した程の笑顔をする。こう云う|たわい《ヽヽヽ》のないのを芳枝などと一人前に呼ぶ気はせぬ。そこで芳兵衛。 「あたし、なぜ夜になると台所へ行くのいやがるか知ってる? 云おうか? 天窓の綱よ。あれ、こんな風に輪になってブランと下ってるでしょう。首縊《くびつ》りの縄みたい。あたしがあれで首縊ったらどうしよう。うわッ」と両手で頸《くび》を抱《かか》えている。莫迦莫迦《ばかばか》しいようなものだが、そうとばかりも片付け切れぬ。こう云う神経は私には遠いものだが、頭で理解出来ぬことはない。  ——やはり夜で、私が二階から下りて来ると階段の下の曲り角に隠れていた芳枝が、不意に飛び出すと一緒に「わッ」と怒鳴ったことがあった。ところが「なんだい」と平気な私の前で、芳枝自身が驚いた恰好《かつこう》で立ちすくんで了《しま》ったのだ。 「どうしたんだよ、おかしいな君は」 「ああビックリした。お父ちゃんをおどかそうとおもったら、自分がビックリしちゃった。ほら、こんな汗!」 「いい加減にしてくれよ。莫迦莫迦しいにも程がある」こっちが平気だから自分で驚いたのか自分の声に自分がおびやかされたのか。或《あるい》はまた、しんと静まった薄闇《うすやみ》の中に息をひそめて立つ、何も思いもうけぬ人間が来る、そこへ突然変な叫びが起る、それは自分が挙げた声であって最早《もはや》自分のものとは思われぬ、相手が自分か自分が相手かそれももう判《わか》らぬ、そんなことかも知れぬがしかしそれとて私の勝手な想像で、芳枝の臆病心理を云い得たとは思えない。本人にきいてみると、いつも決まって云う、「何だか知らないけど、ただこわい」だ。とにかくこう云う場合芳枝の気持と云うものは、私にはまるで判らぬ。考えて見たとてどうにもなるものでない。「何しろ他人《ひと》をおどかしといて自分でビックリしていれば世話はないや」私は本気で不機嫌《ふきげん》になり、どっかりと火鉢側《ひばちぎわ》に坐って了う。私はきっと取りつく島のない顔付をしているのだろう。芳枝が泣き顔になって、 「お父ちゃんはヒドイや」 「なに?」私は芳枝をにらみつけた。 「あたしは本当にビックリしたんだよ」泣き声を出した。  私は大分腹が立って来た。然し怒り飛ばす気にはなれず、為方《しかた》なく、 「君みたいのは、少し気障《きざ》だぜ」と出来るだけ冷淡に云った。そう云う意味が芳枝に通じるとは勿論《もちろん》思っていないのだ。  或時、これは昼間だったが、時計のカチカチ云う音がどうしても恐《こわ》くていけない、止《と》めよう、そう云い出したことがある。その時私は机に向ってぼんやりタバコをふかしていたのだが、喫《す》いさしを火鉢に投げこむと振り返って、 「芳枝、ちょっとここへ来い」珍らしく芳枝と本名を云った。芳枝がやりかけた編物をぶらさげてやって来た。毛糸の玉が向うの方でくるくる廻っている。 「そこへ坐れ」 「なに?」坐った。また編物を始めようとする。 「編物は止めにしろ」 「赤ちゃんの急ぎよ。自分で急いで拵《こし》らえろって云ったくせに」 「ふざけないで聞いていろ。いいか、時計と云うものは、時を知らせるために出来ているものだ。その機械の構成上、ああ云う音がするのだ」 「知ってるよ!」 「黙れ。音がするように出来ている以上、音がするのに何の不思議がある。いわんや何が恐いんだ。一体君は、お前は、よく恐い恐いと云うが、半分は出鱈目《でたらめ》だろう。うそだろう。いい加減なことを云って、俺をからかって喜んでるんだろう。ええ?」 「ううん。からかってなんかいない」芳枝は多少|悄気《しよげ》たような声を出した。 「きっとだな? もしそれも出鱈目だったら承知しないぞ、いいか?」  芳枝はうなずいた。 「本当に恐いんだとすると——なお困ったわけだなア。一体どう云うわけかなア」 「いつもなってるんだから、何でもなかったんだけど、さっきからずっと編物してたでしょ、ひょいとあの音が耳についたんできいてると、いつまでもいつまでも鳴ってんのよ、正確に。だんだん変になって、了《しま》いに恐くなっちゃったの」 「それは君、ネジが捲《ま》いてあるし、弛《ゆる》めばまた捲くからいつまでだって鳴っているさ。正確なのをよく機械の如くと云うが、時計が正確でなかったら役をしない。そんなことを気にしてた日には、何から何まで恐くなるのは当り前だ」 「そう云えばそうね。あたしだってそんなことよく知ってるんだけど、恐いと思う時はそんなこと考えないの、ただ恐いの」 「それがいけないんだよ。恐いと思い出したら、そこでちょっと踏み止《とど》まって、しかし、と考えて見るんだね。これはこう云うわけのものだからこう云う筈《はず》だ、そこに何も不思議はないと、ね。それから、いつかみたい障子に伊達巻《だてまき》を自分ではさんで、誰か引張ってると騒いだが、あれなんか、そんな筈がないと思ってみればいいんだ。そうだろう? 君が便所から出て、手を洗って、廊下の戸を閉めて、それから部屋の障子を開けて入ったんだ。誰も後から引張るような奴が居るわけはないじゃないか。着物か何かが、釘《くぎ》にでもひっかかったか、障子にはさまれたか、大体そう云う見当はつく筈じゃないか。変だなと思ったら、筈か筈でないか先《ま》ずそこのところを考えて見るんだよ」 「それが、そのときはなかなかそう行かないのよ。あたしの癖なのよ」 「いやな癖だな」  初めの意気込みに似ず、私の小言もその辺で尻切《しりき》れトンボになってしまった。芳枝を茶の間の方へやり、机に頬杖《ほおづえ》して私はぼんやり考えごとを始めた。  芳枝がそう云う病気なのではないか、先ずいつもの心配が首を擡《もた》げたが、然《しか》しどう見ても病気の身体とは思えぬ。よく寝、よく食い、よく動き、血色よく、体重は十分、乳もよく出る。神経だけがこわれていると云う場合があればだが、そこまで疑うとなると私にはどうにもならぬ。  いつだったか、大よそかわいた洗髪を前に長く垂れて、芳枝が台所にいた。何か取ろうとして屈《かが》んだ時、瓦斯《ガス》の火が髪についた。危いぞ、と注意しようと思っていた時なので、私は茶の間からそれに飛び付くようにして火を消した。火がついた瞬間ボッと音がした。私が両手で髪をしごくようにしたので消えたのだ。私の両の掌《てのひら》には焼け折れた毛が一ぱいついたりして、私は冷汗をかいた。それにもかかわらず、芳枝は大声を挙げて笑っているのだ。「ボッと云ったから何だと思ったら、あなたが眼をむいて飛びついた、とても可笑《おか》しかった」などと云う。そう云う種類の恐ろしさと云うものはピッタリ来ないらしい。推理の要《い》らぬ、云わば原始的な恐さ、それだけだ。感覚に来ぬものはさして恐くないのだ。  私の云う芳枝のトンチキとは大体次のようなものだ。  比較的新らしく出来た私の友人にFと云うのがある。その人が私の留守中、初めて自家《うち》を訪ねてくれたことがある。 「どなた様でいらっしゃいますか」「何か申し伝えることでもございましたら」「まあ折角おいで下さいまして、お茶なりと——」あとでF君の話に、甚《はなは》だ尋常な応対で坐り方指先の揃《そろ》え方までちゃんとして、人からきいたり、前に私が書いた小説から想像していたりしたものとは大違いで、面喰《めんくら》ったF君はつられて莫迦丁寧なお叩頭《じぎ》を幾つもして引き下ったそうだ。 「それがその、眉唾《まゆつば》ものでね」そう云って私は笑った。  それから暫《しばら》くして、私は赤ん坊を抱き、芳枝を連れ、芳枝には初めてのF君宅を訪れた。芳枝は誠にとりすました顔で、襖《ふすま》のあけたてにも膝《ひざ》をつき、茶をのむ様《さま》も礼法にかない、口数も少く、食事となると箸《はし》の上げ下げもたしなみ深くて、二はいかえると、あとをすすめる女中に「もう十分でございます」などと、——私は可笑《おか》しさをまぎらす為につるりと顔をなでたりするのだった。  そこまではいい。が、二度目からは大分変って来る。  女中に案内されてF君の書斎の前に立つと、「ちはア」御用聞きがよく使う調子である。「みんなで来ましたア、入りますよオ」 「どうぞ」F君がいつもの静かな調子で応《こた》える。中にはいると「わ、Fさん、鼻の頭にインキつけてる」キョロキョロ見廻して「座蒲団《ざぶとん》敷きますよ、いいでしょ。どっこいしょ。ああくたぶれた。奥さんは? おひるね?」 「おい、静かにしろ、余りしゃべるな」始まったので私は苦い顔をする。 「F君の鼻の頭にインキはついてるし、奥さんは病身だからやすんでおられるかも知れないが、出合|頭《がしら》にそんなこと、少しうるさいよ、云い方もよくない」  芳枝はぷうと頬をふくらます。それは普通のふくれ面《つら》ではなく、口の中へ一ぱい空気を溜《た》めてわざわざふくらせるのだ。  F君は私達を等分に眺《なが》めてニコニコしている。F君にしてみれば、芳枝の様子も様子だが、それを取り上げて真面目《まじめ》に叱っている私がまた可笑しいに違いない。だが、私にとっては決して笑いごとではないのだ。芳枝と一緒で他人と一座する時、私は初めからしまいまでハラハラしている。何を云い出すか判らない。だから時時たしなめてその気勢を挫《くじ》かねばならないのだ。いつだったか、年来の友人Aを尋ね、丁度来合わせた若い友二人を加えて賑《にぎ》やかに話していたことがあった。その時、忙しく立ち働いているAの細君の後姿に目をつけると芳枝が頓狂《とんきよう》な声で「わ、奥さんのおしりんとこが綻《ほこ》ろびてる」と云った。 「おやまあ、それはそれは」と、練れた人柄のAの細君は、笑いにまぎらしうまい工合に受けてくれたのだが、私は気の毒でならず、沈んだ顔付になって了った。私の顔を見た芳枝が、またしくじったかなと云うひるんだ眼色になり、 「云っちゃいけなかった?」 「そう云うことは、大勢の前で云わず、そっと知らせて上げるんだ」なるべく何でもない風に私が云うと、「そうね」とうなずいて、私から怒鳴られなかった事で安心した顔付だ。  F君宅でのことに戻るが、やがてまた訪客があり、その人とF君の細君を加えて麻雀《マージヤン》遊びをすることになった。芳枝は赤ん坊を抱いて私とF君の側《そば》に坐り見ていたが、あくびをしたのをきっかけに立ち上って窓ぎわへ行った。  遊びは大分進んで、誰も身を入れていた。一番優勢なF君が親の平和《ピンホー》を上り、連荘《レンチヤン》の手もいいらしく、紅中《ホンチユン》を捨てるとき、「わたしゃ、うられてエ——」と何かの唄《うた》をのんびりした声で歌い出した。すると向うの窓ぎわで長い間ぼんやりしていた芳枝が「ゆくわい、なアあ」と大声であとを引取った。全く思いがけなかったみんなが「オヤ」と云う顔付で見合ったのと、私が「ばかッ」と怒鳴ったのとが一緒だった。F君がうしろへ引っくり返って笑った。F君の細君が牌《パイ》の上へ顔を伏せて忍び笑いをした。私もとうとう笑い出して了った。  芳枝は莫迦なのではないかと思う時がないでもない。が、きくところでは、学校にいた頃バスケットボールを余りやりすぎて肋膜炎《ろくまくえん》になったきりで、脳膜炎など患《わずら》った事はないらしい。その肋膜も直ぐ癒《なお》ったし、学課の方は案外成績がよかった。だから普通云う莫迦とは違うようだ。茶の湯、生花、琴など、普通の娘が——古風な家の娘がよくやらされることは一通り心得ている。すると、どこを押せばああ云う挙措言動が出て来るのか私には判らぬ。それで私はいろいろと想像してみる——。  芳枝の腹の底は、無意識の裡《うち》にこの世の習俗と云うものを受付けないのではあるまいか。持って生れた感性と云うか何と云うか、そう云うものが二十二の年になっても割にのさばっているのではないか——少し大袈裟《おおげさ》だがそんな風に考えてみる。それをいちいち前に挙げた類《たぐい》の具体的な例にあてはめて見ると、なるほどそうかと思われる節がないでもない。平凡な中流の家庭に育った平凡な娘に過ぎないのだが、私にしてみれば、こいつは今まで一体どんな育ち方を、生き方をして来たのかと不思議な気がする。  芳枝でも、世の中に一応習俗と云うもののあることは知っている。ところで、芳枝の場合それは全く一応知っているので、ちっとも身についてはいないのだ。障子のあることは知っていても、その障子を一枚開ければ、もう障子などの存在をすら忘れて了う。どこでもいきなりくつろいで了う。くつろぐもくつろがぬもない、芳枝にとってはそれが自然なのだ。  私が机の前に寝そべってぼんやりしていると、芳枝が隣の部屋で「うわんうわんうわん」とわけのわからぬことを怒鳴りながら、どたばたやっている。何をしているのだと見ると、着物を両手でたくしあげ、太い腿《もも》まで出して出鱈目《でたらめ》に踊っている。赤ん坊があっけらかんとした顔でそれを見上げている。 「莫迦、何をやってるんだ。埃《ほこり》が立つじゃないか」私が怒鳴ると、びっくりして不動の姿勢をとったが、暫くして「春だもの」と云った。「何を云ってる」と私は呆《あき》れて思わず芳枝にでなく只|呟《つぶや》いた。別に赤ん坊をあやす為にやっていたのでないことは、芳枝の平常から見て明かなのだ。  習俗の染《し》み込み難い生れながらの野性味だとすれば、多少同情の余地はある。だから、私は、人前では為方《しかた》なく小言も云うが(却《かえ》ってわざと知らぬ風をしている場合もある。その方がその場の都合で、いい時)自宅《うち》では出来るだけ放って置く。私のように三十何年もの間、世の中の規約で縛られ、それを利用する能力に欠けて何事も不如意な生き方しか出来なかったものから見れば、芳枝の日日の生活は確かに一つの何かだ。私と云えども、由来習俗をそのまま認めているのではない。むしろ、この世に瀰《はびこ》る習俗の暴威、私にのしかかる常識の圧力に堪え得ぬだけ、内心それらに対する反撥《はんぱつ》は強いのだ。だが、私は習俗の軌道に、余り無理でない限り乗ろうとする。習俗への反撥を派手にひけらかすことは気がひけるし、赴《おもむ》くままに反撥を募らせたらこの世で私の立場はなくなるだろう。(これは功利ではない)  ところで事実は——肉親に対し、知友に対し、私は多少習俗はずれな生き方をして来たようだ。彼等が私に対して示す「困りもの」と云う表情は、この世がこの世であるかぎり黙って受けなければなるまいと思う。それが不当であるとかないとかを云う気はない。只、こう云う私の生活が、習俗的な眼からばかりでは何物も得ることは出来ぬと云う私の為事の上の気持から来たものか、或はまたそう云う生活をさせる自分の中の或物が、私に為事をさせるのか、それをひそかに考えるのみである。  判らぬ判らぬと云うが、私が芳枝に就《つい》て呑《の》み込めないのは、どう云う生き方をすればこんな野性味がいつまでも保てるかと云う、その点だ。私と一緒になって足掛四年、その間には子供も一人生んで、底抜けの貧乏はいつまでとも今にあてはない。その四年間に芳枝の生き方動き方はちっとも変っていないのだ。  今日も、昼食を済ました私が火鉢《ひばち》をかかえ、さて誰の所へ何と云って金借りに行ったものかと思案していると、芳枝がまだ食卓にいて激しく私を呼んでいる。自然としかめ面になる程考え耽《ふけ》っていた私は、余り呼ばれてうるさく、 「やかましいな。何だよ」 「あのね、おとうちゃん」 「何だと云うのに」 「お箸《はし》ね、このお箸よ、一本じゃア、どうしても駄目ね。やっぱり二本でなくちゃ」 「なに?」 「赤ちゃんが、あたしのお箸、一本向うへ飛ばしちゃったのよ。取るのが面倒だから、一本で喰《た》べちゃおうと思って、一所懸命してみたけど、どうしても駄目。やっぱりお箸は二本でなくちゃいけないのね。感心しちゃった!」 「おいおい、俺は今考えごとをしているんだ。そう云うことはあとできかしてくれ」私はぐっとにらみつける。 「そんな顔、こわくない」そう云う芳枝の顔は明かに逃げ腰だ。 「何でもいいから黙っていろ!」  芳枝は、私の顔色を見ながら、そっと箸を拾うと、黙って飯を食べはじめた。眼をふせ、時時ちらと上眼を私に向ける様子だが、私は取り合わず、またあれこれと知り合いの顔を物色しはじめた。 「電燈を止められたんだ。瓦斯《ガス》は先月から来ていない。それは、金を払わないのは悪いかも知れないが、しかしこうなればこっちの|せい《ヽヽ》じゃないよ。俺だって生きてるんだからね、何はともあれ電燈位|灯《つ》いていたっていいじゃないか」なかなか金を出してくれそうもない誰かの前で、ふてぶてしい顔でこんなことを云っている自分を想い描いていた。 [#改ページ]   擬態     一  貧乏もいいが、電燈を切られたときと米の無いときは困る。米のないのが一番困る。 「無いのよ。捜して来てよ」云われると、 「よしきた」と勢いよく飛び出すが、勢いのいいのは家の横町を出るまでで、あとは力なく下駄を引きずった歩き方になって了《しま》う。尤《もつと》も人目には、ふところ手の鼻唄《はなうた》で悠悠《ゆうゆう》たる散歩姿に見えるかも知れない。  友人知己、分に応じ親疎にしたがって借りられるところは大抵借りているから、実はどこにも足の向けどころはないのだ。然し、米は捜さなければならぬ。で、とにかく誰かの所へ行く。 「やあ、相変らず元気だね」 「ああ、元気だ」私の癖で、そうでもないんだ、とは咄嗟《とつさ》に出て来ない。由来、どんなに弱っている時でも、余りしおれた風は、自然と出来ない方なのだ。それで話はもうお了《しま》いである。借りないと決心すると、いよいよ元気のいいおしゃべりをして「また来る」とそこを出る。次の誰かを目指して——乗物代は持っている筈《はず》がないから、中中の遠道を歩くのである。  或時そんなことで、淀橋の諏訪町《すわまち》の家から、あっちこっち寄り散らして、しまいに中野のBの宅へころげ込んだことがある。Bとは最近(当時)の知り合いで、金を貸せと云い出せる程の仲ではない。そこへ私は文字通りよろよろしながら入って行ったのだ。通されて見ると座に三人ばかり先客がある。皆私の知り合いで、私程ではないが、やはり貧乏をしている文学好きの連中だ。 「やあ、いいとこへ来た。早速始めよう」  Bが勢いよく立ち上った。居並ぶ顔ぶれから、私にはすぐ麻雀《マージヤン》だなと判った。 「一風吹かすのかね」 「それがね、S君が芸なしで、みんなジリジリしていたとこなんだ。生憎《あいに》く女房は出ているし、全くいいところへ来てくれた」云いながら押入れから牌《パイ》を出し、テーブルカバーをそそっかしくテーブルに結《ゆわ》えつけている。 「否応《いやおう》なしか」ひとりごとのように云って私は苦笑した。諏訪町の汚ない六畳の片隅《かたすみ》に、赤ん坊を抱《かか》えてころがっているだろう芳枝を頭に浮べたのだ。 「いやに勿体《もつたい》をつけるね」そう云われて、 「つけるよ、やるについては条件があるんだ」案外すらすらと口に出た。Bが笑いながら、 「いくらか乗っけようと云うのかい?」 「もっと深刻なのさ。実はねえ、僕が早く帰らないと家の連中が弱るんだ。僕が燕《つばめ》の親みたいに餌《え》を捜しに出たわけなんだよ」ニヤニヤしながら云った。Bは一寸《ちよつと》どぎまぎしたふうだったが、 「そりゃア君なんでもないよ、失敬だけど僕に任かして貰《もら》おう。大丈夫、さア始めよう——一寸失敬」ちぐはぐに云い捨てると、Bはドタバタと階段を降りて行ったが、暫《しばら》くして「S君ちょっと」云う声がした。Sは黙って下りて行った。下で何か話しているようだったが、やがてBがまたドタドタと上って来た。坐るなり「さあ親決めだ」と賽《さい》コロをふった。そしてチラと私を見て 「S君にお使い番を頼んだ」と云った。 「それで後顧の憂なし、では一手教えようか」 「なにを!」  今まで曖昧《あいまい》な顔付で視線をまごまごさしていたあとの二人も、慣れた手つきでパイを並べはじめた。……  そんな工合で、何とかごまかしごまかしやって来たのだが、芳枝も始めは随分驚いたらしい。ところが、私が案外のうのうとしているし、そんな場合をいつもどうにか切り抜けて、為事《しごと》の方もぼつぼつやっているため、だんだんと驚かなくなった。もう駄目かと思っても、私がニヤニヤしているのを見れば、駄目でもないのかと思い直すらしい。やがて生来の暢気《のんき》さを発揮しだして、子供の生れた頃には、完全に「牛は牛づれ」と云う恰好《かつこう》になった。その代り私はなかなかつらい。私とても、そう暢気でばかりはいられない筈《はず》で、たまには自分でも気付かずしかめ面《つら》をしていることがある。するとそれが直ぐ何倍かの振幅になって芳枝に響く。大抵のことにニヤニヤしているこの亭主がふさいでいるのでは、これは余程のことだ、余程困ったことなんだと、大風で屋根を吹き飛ばされたように慌《あわ》てる。何がどうしたんだ、なんだなんだとうるさく訊《き》く。 「どうも今朝《けさ》から歯が痛くていけないんだよ。何しろこの陽気だからな」と私は出鱈目《でたらめ》に窓の外へ目をやったりする。 「あんまりいいお天気だと、歯が痛むの?」 「どうもそうらしいな。俺の歯は変だよ」 「おかしいわね。——冷やそうか?」 「それには及ばん」 「だけど、困ったわね」と云うが、芳枝は明らかに安心した様子だ。芳枝に何を相談したってらちの明くことではない。私が弱い顔をすれば、ただ一緒になってうろうろするだけだ。うろうろされるのは足手まといだ。 「ああ大丈夫、平気だ。なんでもありゃしないよ」私は万事それで片づけて了う。私がそう云っていさえすれば、まるでその気になっていられるらしい芳枝も妙な女だと思う。 「身体《からだ》さえ丈夫なら、産婆になんか見て貰《もら》わなくたって、安産にきまってる、心配するな」 「それはそうかも知れないけど、お産の時はどうしてもお金|要《い》るでしょ?」 「要る。然《しか》し何とかなるにきまっている。生れる子供にとっては何しろ一生に一度のことだ、それが何とかならない筈はないよ」 「そう、確かにそうね」と安心して了う。  事実非常な安産だった。芳枝が婦人雑誌の附録の「安産の栞《しお》り」を暗記する程読んだり、宿の主婦に聞いたりしての自己診断で、もう十日も経《た》ったら危いなどと云っていたその日の夕方、私が他所《よそ》から帰って見ると、うす暗い中でうんうんうなっているのだ。とにかくと云うので近所の医院へ駈けつけ、産婆を呼んで来て診《み》て貰うと、直ぐだと云う。 「ここでなさいますか、それとも?」と産婆が云うあとについて、「是非お宅で——」と、うまい工合に運んだ。産婆は「お湯の用意が要りますから」と慌《あわ》てて出て行った。ここでなさいますか、と産婆が見まわす六畳には、お産の支度《したく》どころか、目につくものは机一つ、火鉢一つだ。 「なかなか痛いや、あいたた」と立ち上る芳枝を肩につかまらせ、病院まで一町程の道を歩いた。抱いてってやろうと云っても、恥かしいからときかぬ。病院へついて、芳枝を産婆の手に渡し、一番安い奴はどれだ、と産衣《うぶぎ》を買って病院に駈けつけると、どうも様子が変だ。 「買って来たぜ」とその包みを振ってみせると、仰向きに寝ていた芳枝が弱々しく笑って、 「生れちゃったア」と云った。 「へえ、どうかと思うねえ。呆《あき》れたもんだ。へえ」私がわけのわからぬことを大声で云うと、産婆と助手の少女が、隣りの部屋から陽気な笑い声を立てた。そっちへ行ってみると、真赤なのが大人《おとな》しく湯をつかわされている。莫迦《ばか》に背の高い奴だと思った。それから、ははあ女かと思った。 「どうも有難うございました」私は頭を下げた。 「いえ、もう大変御安産で——お立派な赤ちゃんです」 「いや」 「おべべ、丁度間に合いましたね」 「いや」と頭をかいた。 「女の児だよ。いい?」芳枝が向うから云っている。いいも悪いも、現に女の児が生れているんじゃないかと私は可笑《おか》しくなって、 「かまわないよ女の児で。これを見ろ、俺は勘がいいから、この通り赤い着物を買って来た」芳枝を安心させる為に、麻の葉模様の木綿の綿入れをわざと手柄顔に拡げて見せた。芳枝は、女の児で私に済まぬと思っているのだ。  病院には約二週間いた。「普通なら一週間、大事をとって十日なら、御退院で結構です」そう産婆は云うのだったが、私は何のかのと延ばしていた。 「何しろ初めてのことですし、老人は居ず、大事の上にも大事をとりたいと思います。この機会に家を一軒借りたいとも思いますし——」そんなことを云い云い、実は金を集めるために私は方方を駈け廻っていた。二週間目に漸《ようや》く必要額が集まると、休むひまもなく夕方の六時頃から貸家捜しに出かけ、七時には六畳二畳の二間と云う家を見つけると、早速、雑巾《ぞうきん》、バケツを持ち込んで掃除をし、九時には円タクを病院の前につけて、芳枝と赤ん坊と道具一切積み込み、自分も運転台に乗り込んで退院と引越しとを同時に済ました。 「どうだ、一軒立ちだぞ。長屋ではないんだぞ。下宿屋なんか可笑しくって」と極度の疲れから私は妙に口がだらしなくなっていた。 「うん」と芳枝は何より先に横になった寝床から首を擡《もた》げ、家中をキョロキョロ見廻していたが、 「このうち、いくらだって?」 「十二円だ。然し十一円にまけさした。いずれ十円にさせようと思っている」 「莫迦に安いうちもあるものね」 「安いだろう。この家はこれで掘出し物だぜ」 「安いけど——莫迦にまた汚ない家だね。夜見るせいかしら?」 「いいや。家と云う奴は昼見る方が汚ないんだよ。あした俺がもっと丁寧に掃除はしてみるがね。仮の住居だ、我慢しろ」 「勿論《もちろん》平気だけど——」と云いかけて芳枝はクスクス笑い出した。なかなか止《や》まない。 「こら、あんまり笑うな」云い云い私も笑い出して了った。とにかく芳枝と一緒になって初めて借りた家なのだ。  第一に赤ん坊は元気で、母体もあとの調子|極《きわ》めていい。一カ月間起き出すことを禁じ、あと半月をぶらぶらさして置いたら完全にいつもの健康を取り戻した。乳も毎日平均二合ずつ捨てるほどだ。 「どうだ、万事うまくいったじゃないか。俺のやることに|そつ《ヽヽ》はない」などと空威張りをして見せたりしたが、やがて家賃が幾月か溜《たま》り、商人も物を持って来なくなると、私はそろそろ芳枝の様子に気をつけ出した。夕方まで何も喰《く》わぬ、と云うようなことがちょいちょいあり出しては、芳枝も芳枝だが、直ぐ赤ん坊に響くので困る。覿面《てきめん》なのは乳だ。  赤ん坊が大きくなるに連れ、搾《しぼ》って捨てる量は減ったが、依然としていい乳だ。風呂で温まると、両方の乳房《ちぶさ》から白い線が三四本シュウシュウと飛び出す。赤ん坊が嬉しがって騒ぐと、芳枝もいい気なもので、|とめ桶《ヽヽヽ》の中へ飛ばしたりして赤ん坊といつまでも遊んでいる。羨《うらや》ましそうに見ている女《ひと》があるそうだが、尤《もつと》もな話だ。  それ程の乳が、米が無くて——つまり芳枝の腹が空《へ》り過ぎると、ぴったりと止って了うのだ。いくら吸っても出ないから赤ん坊は怒る。話には聞いていたが、実際にこう云うことに出会おうとは思わず、私も可成り驚いた。  そう云う時、私が出かけてやがて食物を持って帰ると、(持って来ないわけにはゆかぬから何とかして持って来る)それを見ただけで、芳枝の乳首から乳がぽたぽたと落ち始めるのだ。 「あんまり現金だぞ」私が大声を出すと、 「あたりまえさ」とてれている。  そういう経験の後、応急の策として私はずるい方法を発見した。芳枝を暗示にかけるのだ。 「またよ、お父ちゃん、これ」とぐずぐず云う赤ん坊を抱《かか》えた芳枝が乳房を振って見せるから、私は心得たと云う顔付で、 「いや、そろそろ出かけようと思っていたところだ。米は何とかして来るにきまっているが、どうだい一つ、ぼたもちを買って来ようか、うんとあまい奴を」膝《ひざ》をのり出して調子よく云う。 「ぼたもちイ」と芳枝は一ぺんにニコニコして了う。 「ああ、ぼたもちだ。角の駿河屋《するがや》のやつさ。この辺じゃあ、あすこのが一番だろう」 「まアあすこだわね」 「いやにおっとり云うね。じゃ買って来よう——。おい、乳が出て来たじゃないか」何とか云いながら私は乳房の様子をうかがっていたのだ。乳首にぽつりと白い玉が浮かんで来た。 「あ、ほんとだ」芳枝は顎《あご》を引いて「そう云えばこんなに張ってるけど、いつ張っちゃったのかしら——さ、和枝《かずえ》ちゃん」と赤ん坊にふくませる。  この応急手当を済ませてから私は出かける、そして、云ったものは必ず買って来てやることにした。嘘《うそ》だという気があれば、乳は出ないのだ。  しまいには、芳枝が真面目《まじめ》な声で、 「お父ちゃん、おっぱいが出ませんよ」などと云うようになった。何でもない、唯甘いものが欲しいのだ。 「それは誠に困りましたね」私は振り向いても見ずそんなことを云っている。  芳枝のあまいもの好きには恐れ入る。夜中に一人机に寄りかかってぼんやりしていると、狭いうちのことで直ぐ後に赤ん坊と寝ていた芳枝が、むくむくと起き上った様子だ。振りかえると、たくましい胸や腕を見せて芳枝が床の上に坐っている。頬《ほお》にまくら覆《おお》いのしわのあとをつけ、電燈がまぶしいのかしかめ面に辛うじて片眼を開けている。 「これは丹下左膳殿、お目覚めか」  返答に困ったらしく顔をくしゃくしゃさせていたが、突然、 「おしるこ、欲しイい」と云い出した。始まったぞと私は先《ま》ず以《も》って弱りながら、黙って芳枝を見ている。 「おしるこ、欲しイい! おしるこ喰《た》べたい!」自分でどうにもならぬ様子で、きちんと揃《そろ》えた膝《ひざ》の上に両腕をつっかい棒のようにつっぱるかと思うと、その腕をからみ合わせて、声は妙にせまった調子だ。  私はおとなしい顔をつくって、 「あした喰べに行こう、あした駿河屋へ行こう。おしるこにドラ焼か」 「今欲しい!」 「今は無理だよ。さっき隣の時計が二時を打った。もうどこも起きてはいないよ。おとなしく一寝入りすれば直ぐあしただ」  芳枝はぼんやりした眼付で暫《しばら》く天井の片隅《かたすみ》を見ていたが、「あアあ」と云うなり、また夜着を引きかぶった。それで私は安心する。芳枝は横にさえなれば、寝つくのに五分とはかからないのだ。  欲しいものを、たった今欲しいと云うのには困る。そう云う時こっちの出ようがまずいと、疳《かん》を起していけない。私までそれに巻き込まれ、怒鳴り散らし、時には殴《なぐ》りつけるようなことになるから警戒を要する。  或時こんなことがあった。そろそろ袷《あわせ》の頃で、夏の間から欲しい欲しいと云っていたねんねこがどうしても出来ず芳枝はイライラし続けていた。例の「大丈夫、そのうちつくってやる」と云うのが、どうやら怪しいと判ったのだ。そう云う或夜出かけねばならぬことがあり、 「じゃア行って来るよ」私が立ち上ると、 「あたしも行く」と芳枝が白い眼付をした。私は少し改まった顔をして、 「夜だし、赤ん坊が寒いから、君はうちにいたまえ。なるべく早く帰るから」圧《お》しつけるように云った。 「着物をうんと着せて行けばいい。あたし、留守番いや。今夜は何故《なぜ》だか、一人でこの家にいるのいやだわ」 「そうか。それじゃアついて来い。その代り、金策だから、足手まといにならないように気をつけろよ」 「うん」  やがて出かけた。戸塚の環状線道路に出ると、さほどでないと思った風が可成りの強さで砂ほこりを吹きつけた。私は襟元《えりもと》をかき合せると、赤ん坊を背中に結《ゆわ》えつけてせっせとついて来る芳枝を振りかえり、 「赤ん坊に寒いぞ、大丈夫か」と少し声を尖《とが》らせた。芳枝は返事をしない。私はそのまま歩きながら「うちに居ればいいのに」と呟《つぶや》いた。  暫く行くと、不意に、 「ねんねこ買って」と云い出した。私はむっとした。が、気持を圧《おさ》えて、 「買ってやるよ。これから行って金が出来たら、予定の方は後廻しにして買ってやってもいい」 「今買ってよ」 「今買えるわけがないじゃないか。また判らないことを云うか」 「だれだってねんねこしてる。こんな裸おんぶしているの、あたしだけだ。買ってよ、今買ってよ!」 「往来でそう云う莫迦なことを云い出す奴があるか。少し落ち付いてものを考えろ。だから始めからうちに居ろと云ったじゃないか」云いながら芳枝を見ていた私は、厄介なことになったと思った。芳枝は眼を変につり上げて、往来に立ち止まって了ったのだ。これはいけない、そう思うと、私は急に腹が立って来た。 「おい、ここから帰れ!」鋭く云うと、 「厭《い》や! ついて行くんだ」 「帰れと云ったら帰らないか!」 「いやだい!」そう芳枝が泣き声を上げると同時に、私の右手が芳枝の顔に当っていた。 「わッ」と芳枝は両手を顔に持って行き、 「眼から火が出たア、ピカッと光ったア」そのまま側《そば》の電柱によりかかった。そして、大声で泣き出した。私はじんじんと音を立てて湧《わ》き上る怒りを感じながら、 「よし、俺も帰る。さあ帰れ。これで金策になんか行けるか、莫迦!」私は芳枝の肩をぐいと押した。のめりそうに泳いだが立ち直るとまた動かなくなった。 「勝手にしろ!」私は鋪道《ほどう》を蹴《け》りつけるように歩き出した。すると、芳枝が「どこへいくんだア」と追いすがって来たが、私は振り向かず足を速めて、とうとう陸軍射的場の中へ入って行った。草をふみしだいて出鱈目《でたらめ》に歩く私の行手には、防弾堤が暗い夜空をくぎって高くそびえていた。 「とにかくあのてっぺんへ登ろう」そう思い思い私は急いだ。ふと気づくと、芳枝のはッはッと云う息づかいがすぐうしろでする。私はくるりと振り返えり、こぶしを固めて立ち止った。 「こんなところへ連れて来て——」あえぎあえぎ芳枝が云う。「こんな原っぱの真中で……人を殺す気だな」  ゴツンとその頭へコブシが飛んだ。ふらふらとしたが立ち直ると、「殺して……この草の中へ抛《ほう》り込んでおくつもりだな」「だまれ!」芳枝の肩に手をかけて振り廻した。始めて赤ん坊が泣き出した。芳枝の着ている時候はずれのモスの単衣《ひとえ》が肩口から取れて私の手にからみついた。私はその手応《てごた》えのないものを力限り草むらへたたきつけると、もう片方の袂《たもと》をつかんで今度は意識してそれをひきちぎった。芳枝の、肩からむき出しの太い両腕が、白く際立《きわだ》って見えた。私は思いきり怒りをこめて、芳枝をにらみつけた。芳枝ははっと息をのんだようだ。 「鬼だ、鬼みたい顔だ!」そう叫ぶと、芳枝は腰を引いて身構えたが、突然草むらの中を走り出した。「こわい、こわい」そんなことを云いながら、足場の悪い原っぱを方向もなく走る。赤ん坊と芳枝の頭が、ひどく左右にゆれながら遠ざかるのが判る。ザアーと砂の崩《くず》れる音がし、芳枝達の頭が不意にかくれたが、直ぐ凹地《くぼち》の向う側の斜面を這《は》い上る姿が見えた。「お母ちゃん」と叫ぶ芳枝の声が全く不意打ちで私の耳に来た。 「お母ちゃん、お母ちゃん!」  何とはなしに、大変だ、と云う考えが私の頭に来た。私は自然と芳枝の後を追った。 「お父ちゃん、お父ちゃん!」そう云う声が、風に吹き散らされるのだ。  追いつくと、私は芳枝の髪をつかみ、その場へ引据えた。ペタペタと腰を落した。私もその場にアグラをかくと、第一に自分の気を鎮《しず》めるにはどうしたらいいかを考えた。私は、いかにも自分自身にまア見ろよと云う風に、星ばかりの夜空を見上げた。汗を吹く風が意識されて来た。 「おい、俺も君も莫迦だったんだ。落ちつこうよ、な」  芳枝は咽喉《のど》の奥で何か云いながら、また大声を上げて泣いた。不意に立ち上って、駈け出そうとするのを押さえ、 「たまには君がヒステリーを起すのも無理はないんだ。うちへ帰って、ゆっくりと君の不平を聞こう。こんなことをしていては毒だからね」  私が云う間も、芳枝はわんわん泣いていたが、やがて、多少気が鎮《しずま》って来たらしく、もう逃げ出そうとはしなかった。私は芳枝の帯に手をかけ、原っぱを諏訪《すわ》神社の方角へ引張って来た。そこから道一つ越え、社の境内を抜けるとうちなのだ。原から道路へ出るには三間程の土堤《どて》を越えなければならない。先ず私が道路に下りた。芳枝は土堤を半ば下りた所で、上りも下りもならずまごまごしている。急な斜面が下手《へた》をすると滑《すべ》るのだ。肩からむき出しの太い腕を左右に浮かせて身体《からだ》の調子をとっている様子が可笑《おか》しかった。 「さあ、つかまれ」と下から手を差し出すとそれを両手で受け、のしかかるようにかけ下りた。 「よいきた」と受けとめてやると、涙と水っぱなだらけの顔で「あははは」と笑った。神社前の明るい電燈で芳枝は自分の姿に気づくと、太い両腕をぶらんと前に下げ、顎《あご》を引いて左右を眺《なが》め、「こんなになっちゃったア」とまた泣き出した。 「もう泣くな、誰か来るじゃないか」 「これ、女学校の四年の時、村田のお貞ちゃんとおそろいで買ったんだもの、これ一枚、やっと残ってんだもの」 「そいつは惜しかったが、とにかく早くうちへ行こう。寒いよ、その恰好《かつこう》じゃあ」  その時も、ドラ焼を買って来てやるからと芳枝を寝かし、私は改めて金策に出かけたようなわけだ。  齢《とし》が若いと云っても(芳枝は算《かぞ》え齢で二十一)、子供の一人も産めばもう少し何とかなる筈のものだ。赤ん坊が泣き止《や》まぬと、自分まで情けなくなって泣き出して了う。そうなると私も知らん顔は出来ず、やりかけたことを放り出して赤ん坊をあやしにかかるのだが、先ず母親からなだめてかからねばならぬのには閉口する。  要するにたわいない困りものの芳枝だが、ときどき何かが憑《つ》いたように普通の——先ず当り前の女らしいものの云い方をすることがある。いかにも鮮《あざや》かな変貌《へんぼう》振りだ。この頃の私には、芳枝のその変貌が、少し気になる。こんなものを書いてみる気になったのも、実はそれがもとなのだ。     二  小学校の頃、体操で歩調をとって歩くとき、踏み出しは左足からときまったものを右から歩き出し、また、手足は交互に動かす筈《はず》なのが、左手を左足と一緒に前へ出したりする同級生があったのを記憶するが、芳枝日常の挙措止動は大体それに似ている。さきに書いたようなことも、別に私が選んで並べたものではない。日日のどこをとっても、大概似たものだ。  そこで「変貌」の方だが、気の所為《せい》か顔付まで変って了《しま》う。妙に意識的な笑い方をする。ふと気づくと、声にはならぬその笑い顔を凝《じ》っと私に向けていることがある。私も自然と気持が引きしまってくる。私は見返してニヤリと笑うのだ。何かにまぎれそれで済んで了うこともあるが、気持では尾を引いている。私は、芳枝からでなしに、何か私達を支配するものから正《まさ》に一点入れられたような感がするのだ。  こんなことがある。  アパート風なAの宿で三四人で酒をのみ、便所に行ったついでに二階の物干に出て風にあたっていた。すると眠くなり、私は二階中を歩いて空部屋を捜し、一寸《ちよつと》休むつもりがいつかぐっすり寝込んで了った。A初め皆は、いくら待っても帰らぬ私に不安を感じ出した。三人は手分けして、或者は線路まで見に行った。Aなどは、ローソクを灯《とも》して、便所の下の方を紺がすりの着物目あてに覗《のぞ》き込みさえしたと云う。うちへ帰ったのかも知れぬと誰かが云い出し、三人は安心したさに揃《そろ》って池袋から諏訪の森の家まで円タクを急がした。家には芳枝と赤ん坊が寝込んでいて、もう夜の十二時に近い。話をきくと、芳枝はいつものおしゃべりをせずに、考えていたが、 「二階お捜しになりまして?」と云った。 「いや、捜しませんでした」Aが多少気を取り直して答え、早速皆で引返して私を発見したのだ。A夫婦が不安と期待とで、せっかちに階段を上り切ると、いきなり高いいびきがきこえたそうだ。Aの細君から私は笑いながらにらまれた。 「愉快だな、大きな男三人を一時間ばかり駈け廻らして——蒼《あお》い顔を見たかったぞ。愉快愉快、も少し飲もう!」 「いい気なもんだ」三人は酒の醒《さ》め果てた顔を見合せた。「また緒方の自慢の種を一つふやしちまった」Aは笑いながらいまいましそうに云った。  大声で何か歌いながら帰ってみると、芳枝は普段着に着かえ、赤ん坊には「いい着物」を着せて、坐っていた。 「ほう、おでかけかい?」 「いいえ」 「莫迦《ばか》にすましてるじゃないか。然し、愉快だったな。うろたえやがったな。どうだい、連中、真青な顔をしていたろう。嬉しいな」 「早くお休みなさいな」 「ほう、ちゃんと床もとってあるね。然し君達んじゃないのか、これ」 「あなたのですわ。あたしたちのは、これから延べます」 「そうか、それじゃあ御免|蒙《こうむ》るかな。これ和《かず》ちゃん、和枝さん、か、アバババア」 「眠ってますから静かにして頂戴《ちようだい》」 「しくじった。じゃあ、おやすみ」 「おやすみなさい」  翌朝、芳枝がこんなことを云った。——皆のうろたえた様子から、了《しま》いに私が死んで帰ることを想像した。死んで帰ったら、万事——何が万事か判《わか》らないが、とにかくあきらめるより外ないと思った。そう思い出すと、何だか死んで帰りそうに思えて来た。それにしても、死体を寝かせるのに、いい方の夜具は勿体《もつたい》ない。そこで、焼いても惜しくないよう一番悪いぼろぼろの蒲団《ふとん》をしき、シーツだけは真新しいとって置きのを使った—— 「それ、ほんとか」まだ横になって、タバコをふかしふかし昨夜のことをニヤニヤ思い浮べていた私は、はね起きるといきなり蒲団をひっくりかえして見た。そうだった。 「ひどい女だなア」  芳枝は黙って笑っている。 「冗談じゃないんだろう?」 「ほんとに判らないと思いましたわ」 「ふむ」 「あなたゆうべ寝る時『さわらぬ神にたたりなし、桑原桑原』ってふとんの中で一人ごとを云ってらしたわね」 「……覚えがないね」 「あたし、知らぬが仏、めでたしめでたしって云って上げようかと思ったけど、よしましたわ」 「そうかい。云わなくってよかったね」 「ええ、云わなくってよかった。でも、あたしも蒲団の中へ入ってから、そっと云いましたわ、そしたら気が落ちついて眠れました」  それから言葉少なに食事をすまし、芳枝はさっさと家事にとりかかった。  いつも水のように私と共にゆれ動いている芳枝が、半年に一度、一年に一度、氷のようにカチンと固まって了うのだ。私と云う器物に盛られたその氷の塊《かたまり》は、動かせば器物の|ふち《ヽヽ》に寒々とした音を立てるばかりだ。そう云う時の芳枝の態度はことさら尋常で、言葉のやり取りにも抜けたところはなく、つつましい笑顔も、私には只《ただ》見すかされたとしかとれない。  こう云う芳枝の変貌《へんぼう》は、何から来るのか。自分より外にたよるものなし——芳枝は芳枝なりのそう云う孤独感からと少し大げさだが私は解釈する。私への「つき合い」にあきた時、或《あるい》はどうにも「つき合いかねる」時、芳枝は非常に手軽に凝固し得《う》るのだ。手軽にと云うのも、実は常にその用意が出来ている故とも見れば見得るのだ。  私には、昼は何もせずぼやぼやと過し、夜|更《ふ》けてでないと為事《しごと》に身が入らぬと云う悪い癖がある。或時急ぎの為事にかかり、四五日それを続けた。一切りに来て私はペンを投げ出し、 「やれ、第一巻の終り」とうしろにひっくり返ったとき、 「あなた」  眠っているとばかり思った芳枝が、赤ん坊の頭の向うから云う。その声と調子から、私は「来たな」と思った。 「お為事すんだの」 「うむ、一きりだ」 「少ししゃべっていい?」 「ああいいよ。しゃべりたまえ、いくらでもきく」  芳枝は赤ん坊の頭から腕を外《はず》すと、代りに赤ん坊用の枕をあてがい、蒲団をたたきつけてから私と向き合って坐った。例のおとなしい笑い方をする。私はその顔を真面目《まじめ》な眼付で見ていた。 「あたし、今まで、村田のお兄さんやお貞ちゃんやお姉さんのこと考えていたのよ」ゆっくりと云う。 「ふむ」 「村田さんでは、お父さんもお母さんも早く亡《な》くなって、姉弟三人が小さくかたまって心細く生きてるのよ。別に生活には困りゃしないけど、力になってくれる身よりはなし、お兄さんはまだ大学にいる世間知らずだし……それに御両親が呼吸器病でなくなったりして、あの人達とてもしめっぽい日を送ってるの。あたしKにいたときは、うちも近かったし、お貞ちゃんとは同クラスだし、いつも遊びに行っていたわ。あたし遊びに行って上げてたんだわ。あたしただもうわいわい一人で騒いで——とうとうお姉ちゃんまで笑わしたりして、芳っちゃんが来ると家中一ぱい花が咲いたようだって云われてたの。あの人達のふさぎの虫をどうしても殺して上げたかったの。そんなふうだから、あたしが東京へ出ると云ったら、お姉ちゃんもお貞ちゃんもみんな泣いたわ」  芳枝の少し涙っぽい眼を見ながら、私はうなずいた。 「ほんとに、今あの人達どうしてるかしら。お姉ちゃんは今市《いまいち》のW百貨店の女店員の監督をしていたけど……お兄さんが学校を出るまではお嫁にいかないって云ってたけど……あたしね、お母さんと喧嘩《けんか》して、東京へ出る決心をしたとき、村田のお兄さんのことが頭にあったのよ。お兄さんは何にも知りはしないんだけど、あたし知らせもしなかったけど、東京でいよいよどうにもならなくなったときは、お兄さんが何とかしてくれると信じていたの。あの時——」と芳枝はうっすりと笑って「あの時あなたが出て来なければ、あたし今頃はとっくにお兄さんの奥さんになってる」  七つの時父親に死なれた芳枝は、父親から残されたものをたよりに、父親の後妻である実母の手で女学校を卒《お》えた。何となく気の合わぬ母親だった。合わぬ気持の鬱積《うつせき》が破れ「一人で身を立てます」と東京行を云い出したのだ。そう云う場合、はたが何と云おうと思い止まる芳枝ではなかった。  私の若い知人が、戸塚辺で麻雀倶楽部《マージヤンクラブ》を経営していた。その知人の細君は芳枝の級友だった。学校を出た十九の七月、上京すると芳枝は、夏休みで休業中のがらんとした倶楽部に落ちついた。持って来た金で暢気《のんき》に方方を見て歩いた。八月末、私の知人は細君のことから両親と仲違いし、家を出て淀橋の辺に間借り暮しを始めた。芳枝も自然ついて行き、同じ家に下宿した。私が知人の両親から頼まれ、一先ず帰宅するよう説伏に行ったとき、若い三人は暢気にこれからの生活方法について談じていた。家へ戻る気はまるでないようで、細君は女給でもしようと云った。Sちゃんと一緒なら何でも、と芳枝は腹の底からそう思う風に笑っていた。  女給になることは、今の芳枝には絶対に向かぬ、今女給になっては駄目だ——他人《ひと》ごとながらそう私が考えたことから、私と芳枝との間につながりが出来た。芳枝の云う「あの時」とは、それだ。 「あたしたち——あたしとお兄さんとよ、ただわいわい云ってただけで、込み入った話は一度もしたことはないけど、あたしお兄さんでない人の奥さんになるなんて考えたこと、一ぺんだってなかったわ。判らないけど、お兄さんもそんな風じゃなかったのかしら——あなた少し怒った?」 「いいや、ちっとも怒っていないよ」 「そう。それでね、いつかあたしたち春光館にいたとき、お兄さん来たことあるでしょ、ほらあたしが活動へ連れてって貰ったとき」 「うん、覚えてる。雨が降って、君たち円タクで帰って来たと思ったな」 「そうなの。あの時、お兄さんが云ったことがあるの。夏休みでKに帰ったら、お母さんが訪《たず》ねて来て、あたしのことを云って随分泣いたって。そしてね、一度は怒った手紙をやりましたけど、もうあきらめました、しっかりやるように祈っておりますって。お母さんは強情だから、とても直接にそんなこと云えないのよ、お兄さんに云っとけば、いつかあたし達につたわると思ったのよ。そして、しまいに、お兄さんに向って、あなたにはすみませんて云ったんだって」 「ふうん」 「それをきいてあたし、お母さんてなんて人だろうと思ったの。そんなことお兄さんに面と向って云うなんて……」 「さあね」 「そんなこと黙っていればいいんだわ。黙っていれば、あたしとお兄さんとお互いに判らない顔をしあって、それですんで了うことだわ。いくら正直だからって、そんなことほじくる人ないわ。——お兄さんは、思いがけないことを聞いたよと云うふうに、笑いながら云ってたけど」 「むずかしいものだな」 「ね、あたし、あなたが大嫌《だいきら》いになることがあるの。なんだか、つまんなくって、思いきり地べたをころがって見たくなることがあんのよ。そんなの、大抵あなたにうんと叱られたあとだけど……こんな赤ん坊なんか産んだのもみんな夢で、ふいと覚《さ》めればやっぱりKで村田さん姉妹とわいわい云ってるんじゃないかと思うことあるのよ。——あたしやっぱり悪い女だわね」 「それはね」と私はあぐらを掻《か》き直し、笑顔で「いつかも云ったが、君はちっとも悪い女じゃないよ。よしんば悪いと云われるようなことをしたとしても、君が悪いのじゃない。君は——好い悪いでない、何と云うか——これできれいな方だよ、にごっていないよ」 「さあ、少し変ね。のみ込めないわ」 「それはそれとして、村田さんのことを云ってみれば、君の気持に村田さんがひっかかっているのは当り前の話だ。しかしそのことを軽く見るわけではないが、だんだんうすれて、いずれ影も無くなる種類のことだね。或はただ憶《おも》い出として美しく君の心に残るだけだね。現実にどうなると云うことじゃない。問題は、君が俺を大嫌いになったり、なんだかつまらなくなったりするそのことだ。そう云う場合に、君の気持にいろいろのことが入り込むんだよ。村田さんのことだってその例の一つだ」私は暫く黙って、また続けた。 「俺が貧乏なこと、俺と君の齢《とし》が大分違うこと——そんなことがやっぱり君には辛《つら》いんだよ。貧乏の辛さは改めて云うまでもなかろう。齢が違う為《ため》、愛情の釣合がとれないのだ。釣合がとれぬと云うより、愛情の|たち《ヽヽ》がくい違っているんだ。例えば、今君が、怒ったのと俺に訊《き》いたろう。俺は怒らないだろう。そこなんだね。喧嘩《けんか》をしたって、君は喧嘩だと思っているか知らないが、俺はただ君をたしなめているばかりだ。愛情の点にしたって、俺はこれでも君を可愛がっているつもりだが……平たく云えば恋愛味が無いんだ。それが気に入らないんだよ。だから若い村田さんの憶い出がよみがえって来る」 「そうかも知れないわね」 「俺は見かけは若いし、身体《からだ》も齢より事実元気だが、どうしたわけか恋愛感情と云う奴が殆《ほとん》ど枯れてしまった。どうしたわけかと云うが、二十過ぎると直ぐ父親をなくし、大勢の弟妹を抱《かか》えて我から父親気分になって行った為もある。そんな中で恋愛なんかやっていられないと固く自分をいましめながら、やっぱりそれでは済まず二人三人次次と相手にして、しくじりばかり重ねてきた。それが手を焼いたと云う気持で来るんだ。要するに感情の上では妙にひねった生き方ばかりして来たんだ。だから君のような若い女を相手にして、対等のつき合いは出来にくくなっている。これは有体《ありてい》に云えば情ない話なんだ」 「そうね、きっとそうだわ。だけど——それでいいじゃないの。それでもいいわ」 「今のところそれでもいいとして置くより為方《しかた》ない、無理だけどね」 「なんとかなるわよ。ふふふ」芳枝の笑い方から、私も誘われてあははと笑ったが、「ところで」と真面目な顔付に返り、「今夜は大分|触《さわ》らぬ神に触ったが、大してたたりも無さそうだから云おうかね。俺も君も見かけは同じ暢気者だが、君は先《ま》ず先ず暢気者さ。俺は——そうだな、暢気でいる|こつ《ヽヽ》を心得ている、とでも云うのかね?」 「少し身びいきじゃない?」 「逆だね。——いつもの君、俺がたわいないとか困りものだとか云っている君は、可なり俺に踊らされているんだ」 「そうなのよ」 「そうなのよって、そう云う風に判るのは、こんな話が出るときだけだよ。その時その時の君は何も気がついてやしない。例えば、こないだ俺が号令をかけたろう。気をつけ、廻れ右、とどなったろう。こっちは考えごとをしているし、君は実用的でないことばかりいつまでもしゃべっているから、打ち切るためにああ云う方法をとったんだ。君はハッと不動の姿勢をとったが、あれは女学校時代の体操の時間を思い出したに違いない。真面目くさった顔で、目を水平の高さにつけ、両足先は四十五度の角度にする為、足先を開けたり少し閉じたりしている。そう云う場合、君には擬態はないんだよ。いつも正体だ」 「ふうん」 「君は俺の笛で自然と踊っている。そう云う時君は、完全に俺によっかかっているんだ。それが時たま、今日なんかも一寸《ちよつと》した例だが、妙に分別臭いことを云い出す時は、気持が俺から離れているんだねえ。やむを得ないさ、それも——」  いつの間にか普段の顔付に返っていた芳枝が、あくびをして、 「寝ようかな」 「ねむいのかい?」 「もうさっきからねむいの」 「道理で急に口数が減ったと思った。じゃあ寝たまえ——しかし、君みたいな人間でも、齢をとればだんだんと擬態を覚えて来る。為方のないことだが」  芳枝は私の云うことなど耳にもかけず「おやすみイ」と云うなり床にもぐり込んで了った。  都合でしかものの云えぬ私のようなものにとっては、芳枝のような人間とのつき合いは、軽軽しく思い捨てるべきではない。都合でものを云い行わなければ生きてゆけぬこの世だから、私は止《や》むなくあれこれと芳枝の舵《かじ》をとる。現に、さっきから何のかのと云っている、それさえどうやら私の都合からでないとは云えない——。 「あたし子供の時分から、悪い子や、末恐ろしい子や、何をするか判らんとよくみんなに云われたわ。お母さんや姉さんまでそう云うのよ。だからあたし、自分は悪い子だと思ってるの。あたしを悪くないって云ってくれるの、村田さん一家の人とあなただけよ」或時芳枝がそう云った。その時私は、不思議な興奮を以《も》って「そんなことはないよ君」と強く云ったのだが——。  それはそれとして、米位いつも事欠かぬようにしてやりたいな、そう思いつくと、私は両手を、オイチ、ニイ、と二三度前につき出し、さて為事《しごと》の続きにとりかかった。どこかで三時を打った。 [#改ページ]   父祖の地  父は、大学を出ると直ぐ、伊勢《いせ》宇治山田の神宮皇学館に奉職した。その年(明治三十二年)のクリスマスに、長男の私が生れた。三年して長女セイ子が生れ、のち一年で、母は祖父祖母を護るために、父と私とを残して郷里|相模《さがみ》の下曾我《しもそが》に帰った。弘夫、英子、正男はそこで生れた。  私が七つのとき、祖母が死んだ。七十八だった。祖母は気味悪いほど真黒な、少し癖ある髪を、今のホリゾンタルに切り、恐《こわ》い顔で、長身の腰はセイ子が手離しでまたがれる程曲っていた。祖父と争いの果《はて》は、生家の定紋つけた鮫《さめ》|ざや《ヽヽ》の短刀を前帯にはさみ、「わたくしも武士の娘」と云った。気強い老婆で、間違ったと知ると、尚《なお》横車を押した。他人《ひと》にものを頼まれることが何よりの楽しみで、くそ骨を折った。  病みついて暫《しばら》くすると「これは治《なお》らぬ病気だ、放っておけ」そう自分から云った。初めは冗談にして笑っていた家の者も、やがて慌《あわ》て出した。医者を断われ、薬は要《い》らぬ、そう云う祖母に、母がすがりついて泣いたことを覚えている。 「死ぬときは死ぬ」と、祖母は笑っているのだ。一と月程して死んだ。非常におだやかな死にぎわだった。「おうおう、いい顔をして」と、集った祖母の妹達、三四人の|しわ《ヽヽ》苦茶婆さんが泣いた。  私が、離れ二階の|てすり《ヽヽヽ》にまたがり、菓子を頬張《ほおば》りながら、相模灘に浮く白帆の数をかぞえ、海辺《うみべ》に沿った旧東海道の松並木の一本一本をキの字やネの字に見ていると、祖父が上って来た。やかましやの祖父が私には眼もくれず「ば、ばあさんが、死んでしまった」と云い云い、居間にしている八畳へ入っていった。祖父は涙を流していた。私は、酷《ひど》く滑稽《こつけい》なものを見たと思ったが、笑うことは我慢した。笑ったら叱られるぞ、恐いぞ、と腹で自分に云いきかせ、そっと階段を下りて茶の間へ行った。近所の人が大勢陽気に話している中で、私もはしゃぎ廻った。  七年の後、八十六で祖父が死んだ。  祖母の死後、祖父は急に弱ったようだ。好きな謡《うた》いも余りやらなくなった。少し寒いと、季節はずれでも終日|こたつ《ヽヽヽ》で背を丸くし、眠っているのかと思うと突然「柳はみどり、花はくれない」と云ったりした。そして非常に大きな|あくび《ヽヽヽ》をした。長くいて、母から雇人《やといにん》とは思えぬ程の信頼を得ている|おつや《ヽヽヽ》婆さんが、家中で一番よく祖父の扱い方を知っていた。 「たいこオ(泰子、母の名)」と祖父の居間から大声がする。「ハーイ」(母の返事)「あーい」(おつや婆さんの返事)これが一緒だ。 「たいこオ」気短かに追いかけて来る。 「ごしんぞさん」押えて「わたしがいきます」と母を用事から立たせず、 「あーい」と腰をのして前掛をはたき、歩き出すと両手をうしろで振る恰好《かつこう》だ。 「へえ、お祖父《じい》さん御用ですか」と襖《ふすま》をあける。 「呼んだら、用と思え」 「へえ」 「蠅《はえ》がうるさいから叩《たた》いて了《しま》え、二三匹はいる筈《はず》だ」 「へえ」と六十のおつや婆さんは、とれてもとれなくても、五分間ばかり|蠅叩き《ヽヽヽ》を派手に振廻すと、帰って来る。  死ぬ三年程前には、祖父は中風になっていた。左半身がきかず、舌はだんだん廻らなくなった。廻らぬ舌で、よく愚痴を云った。食事がすみ、その食器を洗っている台所へ、 「めしはまだかア」と祖父の大声がきこえたりした。母はよく祖父の灌腸《かんちよう》をした。一日おきの「薬とり」が私の重大な役目だった。 「ばあさん」祖父はいつからかそう呼び出した。「たいこオ」が云いにくくなったのだ。 「あーい」 「ばあさん」 「あーい、ただいま——どっこいしょ」  たいした用ではあるまいと思うとき、婆さんは階段の下で「お祖父さん御用ですか」と云う。 「ここへ来う」 「へえ」この頃では用心深く階段を上る。 「お祖父さん、お用は」 「ばあさん、今日は、何日だア」 「今日は、お祖父さん、三十日。みそかですよ」 「あすは、何日だア」 「今日はみそかで、あすは、おついたちですよ」 「妙だな」  おつや婆さんは暫く黙っていたが、 「お祖父さん、御用はもうそれだけですか」 「ああ」 「それじゃ、いきますよ、ヘイさようなら」  婆さんが茶の間に引取り、「どっこい」と膝《ひざ》をつくと、祖父の声で、 「ばあさん」  落ちついた祖母の死に方と、見苦しい祖父の死にぎわ——私は人間の死を思うたび、この二つを頭に浮べる。きかぬ気だった祖母は、あくまでそれらしい死に方をした。同じように強情だった祖父の生涯の果が、幼ない孫の目にも意気地ないとうつったのは、中風と云う病いの為《ため》であったかと、今私は考える。  祖父の強情——例《たと》えばこんなことがある…… 「唐辛子《とうがらし》を持ってこい」或夏の夕方、祖父が云った。云われた母は、何に要《い》るのかと思ったがきき返すことは許されていない。唐辛子のひからびた一束を祖父の前に差し出した。祖父は、むっつりした顔で、その束を、方三尺、欅《けやき》製で、|いろり《ヽヽヽ》代りに茶ノ間に据えられた大|火鉢《ひばち》へ投げ込んだ。母とおつや婆さんとは困った顔を見合せたが、何も云わず坐りつづけた。やがて堪え切れず、激しくむせ入ると共に、立ち上って台所へ逃げ、更に勝手口から外戸《そと》へ飛び出した。 「莫迦《ばか》が」苦苦《にがにが》しげに呟《つぶや》くと、祖父は変らぬむっつりした風で、座を崩《くず》さなかった。 「何かと思ったら、蚊遣《かや》りなんだよ婆や」 「そうでございますよ。これならよく効《き》きますですよ、なんぼなんでもたまりませんよ」 「もう入っても大丈夫かしら」 「まだむせますよ。あれ、お祖父さんはちゃんと坐っておいでなさる」二人は笑いを圧《お》し殺そうと骨折っていた。  そう云う祖父が、意地も張りもけろりと忘れたのは、明らかに中風のせいだ。頭の|たが《ヽヽ》がゆるんでは、平常の覚悟も何もない。私には、死そのものよりも、ゆるみ切った頭で晒《さ》らす生き恥が恐ろしかった。  大正五年春、父は病を得て職を辞し、恩給とりの身となって下曾我に帰った。丸四年目の九年二月、湘南《しようなん》地方には珍らしい大雪の日、父は四十九で死んだ。  気むずかしい祖父母と五人の子供をかかえ、学期|毎《ごと》の休暇の外は任地にある父の留守をまもりつづけた母は、祖父母をおくって幾何《いくばく》もなく、新たな嶮《けわ》しい生活に入ったのだ。が、母のことは、措《お》く——。  私が生れたのは、宇治の五十鈴川《いすずがわ》のほとりだが、母が妹セイ子をつれ下曾我へ帰ると共に、父と私は、山田の岡本町に移った。今、某代議士の邸《やしき》になっているが、当時参宮館、相当の旅館でその離れ二間を借りた。南向きで、広い芝生庭園の向うが堀割で劃《くぎ》られていた。堀割には藺《いぐさ》が生《お》い揃《そろ》い、青青と丈《たけ》高い藺には、蜻蛉《とんぼ》の脱殻《ぬけがら》がしがみついていた。  父はよく凧《たこ》をつくってくれた。下手《へた》な私は、揚げそこなってこわしたり、折角揚げても直《す》ぐ堀割に落したりしたが、父は後から後からとつくってくれた。絵心のあった父は、またよく絵をかいてくれた。  皇学館の学生がいつも訪《たず》ねて来た。学生達は、私が居るため、必ず私向きの菓子折を持って来るのだが、父はそれをいちいち調べて「たべていいもの」「たべていけないもの」に分け、「たべていけないもの」は旅館の人達に直ぐやって了《しま》った。  父が務めから帰る時刻になると、私は、庭はずれ、堀割の岸に立ち、「裏道」(宇治と山田をつなぐ間道)を徒歩で来る父の姿を一心に求めるのだった。やがて遥《はる》か「かえる石」の曲り角に山高帽を認めると、私は両手を揚げて地団駄踏む。きこえはしないと思いながら、「お父さん!」と呼ぶ。父はステッキを頭上で左右に振っているが、だんだんと歩調は速くなり、やがて駈け出す……。  碁好きの父が、夜、岩淵町《いわぶちちよう》の碁敵《ごがたき》の家へ行くときは淋《さび》しかった。そう云う時、私は旅館の女主人の部屋で、女主人や女中を相手に遊ぶのだが、いくら機嫌《きげん》とられても楽しまなかった。そう云う或時、ききあきた女主人の「文福茶釜《ぶんぶくちやがま》」がつまらず、父はまだかと考えながら鼻|くそ《ヽヽ》をほじっていた。しゃべりながら何か縫物していた女主人は、不意に指で布を押さえると、何かを注意深くつまみ、口の中へ入れた。私が、それ、僕が飛ばした|はなくそ《ヽヽヽヽ》じゃないかしらと考えていると、女主人が急に厭《いや》な顔して手の甲で忙《せわ》しく口を拭《ふ》いた。そして、 「蚤《のみ》や思うたら、いやな坊っちゃん! わたしに|はなくそ《ヽヽヽヽ》下されましたな」と笑った。  父が帰ると、女主人は早速その話をした。父は笑い笑い私の頭を撫《な》で、 「|はなくそ《ヽヽヽヽ》は余り飛ばさない方がいいよ」と云った。  二見ヶ浦へよく連れ行かれた。或時、浜に引上げられた小舟に私が乗ろうとし、股間《こかん》を打ったことがある。酷《ひど》い痛さで声も出ず、私はそこにしゃがみ込んで了った。父が振り返り、キツイ目で「どうした」と云った。私は股間を押えながら、 「舟のへりで、ここを——」漸《ようや》くそれだけ云えた。父は、 「そこは大事だから、気をつけないといけない」と云い、広い背中を出して私に乗れと云った。  尋常二年で沼津へ、三年の時下曾我へと、私は二度転校した。沼津には母の実家があるのだ。沼津へ移った当座、私は夜中にふと目覚めて、父の代りに祖母(母の母)を見つけ、そっと泣いた。  やがて、手頃な遊び仲間が出来ると、私は快活な子供になった。母の実家は沼津の東はずれ、日枝《ひえ》神社の参道をはさんで沼津高等女学校と相対した位置にあった。参道は旧東海道に直角に交わり、更に間近く狩野川《かのがわ》の岸で終る。参道の入口、石の大鳥居の左側には、一里|塚《づか》の大榎《おおえのき》が昔ながらに亭々《ていてい》とそびえていた。それは季節になると暗紫色の実をこぼれる程つけ、|ひよ《ヽヽ》や|むくどり《ヽヽヽヽ》の大群を集めるのだった。(「大日本史料」の第何巻かに、コロタイプ版のさし画として、この一里塚が出ているのを、後年発見した。大榎の向うに、母の実家の二階がうつり、障子の白白と閉められているのが心に沁《し》みた)  狩野川には、黒瀬橋と云うのがかけられてあった。下流から数えて三つ目の橋と記憶する。木橋であった。渡れば香貫《かぬき》、左手に小松の多い香貫山がある。確か五|厘《りん》の橋銭をとられた。  黒瀬橋を中心に、私は小舟を乗り廻して遊んだ。春は小鮎《こあゆ》釣りが楽しかった。一本のテグスから枝のように六七本の|かばり《ヽヽヽ》が出ている。竿《さお》は三四尺の女竹《めだけ》で、ただ水面を撫《な》でて居れば、美しい小鮎がいくらでもかかった。苦くて私は余りたべなかったが、祖父母達は|すみそ《ヽヽヽ》を潜《くぐ》らして賞味した。  学期休みの始めには、伊勢からの父が、途中下車で沼津に一晩か二晩とまった。そして私をつれ、下曾我に帰るのだ。休みが終れば、私は父と共に下曾我を発《た》ち、沼津で降ろされる。  下曾我へ来て、転校児童の悲しみを知った。小さいながら都会と云う所で育った私と、まるで土の中から出て来たような子供たちとは、どうにも|そり《ヽヽ》が合わなかった。その上、気むずかしい祖父からは、父への|あまえ《ヽヽヽ》の代償を求むべくもなかった。私は父の休暇を待ちわびた。  七月半ば、父が帰る頃になると、私は必ず|うるし《ヽヽヽ》にかぶれた。私は|おたふく《ヽヽヽヽ》のような顔をワゼリンでてらてらさせ、うつうつとして父を待った。俥夫《しやふ》が父のトランクを下げて門を入ると、私は自分の部屋へ駈け込み、父を迎えて騒ぐ皆の声を聞きながら悲しい気持になった。 「一雄、一雄はどうした」母の声でしぶしぶ玄関の方へゆく。「どこにいたんだね、早く御|挨拶《あいさつ》をするんだよ」  十畳の玄関には、弟妹たちが、はにかんだ顔で一と所にかたまり坐っていた。 「お帰りなさいまし」元気のいい声は出ない。 「うむ」とうなずいたが「その顔はどうした」と父は手袋をとりながら云った。母が引取って、 「いいえ、いつもの|うるし《ヽヽヽ》なんですよ」 「そうか、なるほど。然し、お前だけがかぶれるのは可笑《おか》しいな。どうしたものかな」 「ほんとに」と母は笑う。父も笑っていたが、「それでは先《ま》ず——」と離れ二階の祖父のところへ行った。——  湘南の野山には、至るところ自然生の|うるし《ヽヽヽ》の木がある。四五月には若芽を吹き、六七月となると、旺盛《おうせい》な活力を枝葉いっぱいに見せ、樹皮は灰色に光って内に毒汁をたたえている。|うるし《ヽヽヽ》取りの男達は、鉤形《かぎがた》の小刀で樹幹を輪形に傷つける。その輪形の溝《みぞ》には、見る見る白い樹液がいっぱい溜《たま》る。彼等はそれを|へら《ヽヽ》で採取するのだ。  |うるし桶《ヽヽヽおけ》を下げた男に逢うと、私は寒気がした。白い毒汁は空気に触れて黒変し、桶にどろりと淀《よど》んで表面は泡立《あわだ》っていた。|うるし《ヽヽヽ》採取の頃には、そこら一面の空気が|うるし《ヽヽヽ》の毒気で薄にごりしていはせぬかと思われた。かような空気に慣れぬ私は、いかに注意しても無駄だった。「自然と免疫になりますよ」こともなげに云う医者を憎んだ。——  小学二三年の頃であったか、私が不意にこんなことを父に云いかけた。 「どうして世の中には、お金持ちと貧乏人があるのでしょう。お金持ちは、貧乏人にお金を分けてやったらいいのに」  父は私の顔を凝《じ》っと見ていたが、 「一雄、お前は誰かにそう云うことを教わったのか。それとも自分だけの考えか」やさしく云った。 「自分で考えたんです」私は、この考えが非常にいいと思っていたから、躊躇《ちゆうちよ》なく答えた。すると父は、熱心な顔付で私に云いきかせ始めた。つまりは私の幼稚な悪平等説(?)の誤りを正したのだが、小言《こごと》と云う調子が少しもなかったことはよかったと思った。  父は殆《ほと》んど小言を云わなかった。私達は、父の怒声を殆んどきかなかった。殴《なぐ》ることは絶対になかった。然し、私達は、父の云うことには只《ただ》「ハイ」と答えるほか知らなかった。  父は祖父母たちに絶対服従だった。父は、いつも温顔に微笑を湛《たた》え、おだやかなもの云いだった。しかし、或時、「昨日お父さんは、そっと泣いておられた。お祖父さんがあんまり無理を云われるので……」と、母が自分も泣きながら私に云った。小学生の私は、思いがけぬことを云う母に驚きの目を向けたが、おだやかな水面下に何か|うねるもの《ヽヽヽヽヽ》を感じさせられ、胸を圧《お》される思いだった。父の云うことは何でもきこう、お祖父さんの肩なんか叩《たた》いてやらない、と思った。  父の祖父母への態度から、幼い私達の父への心服が自然と生れたのだ。中学に入った私は、祖父の我儘《わがまま》さ、父のおとなしさに対し、そろそろ批判の眼を向けはじめた。「俺はお前達に一つも無理は云わぬ。お前たちは安んじて俺に従っていていい。決して間違いはないのだ」——微笑している父の様子は、私たちにそう語っていた。後年|憶《おも》い返してみても、私達の前に一度も|破れ《ヽヽ》や弱点を晒《さら》さなかった父だ。封建時代の典型的紳士なのだ。その苦行者的信念を笑う資格は私にはない。  そう云う父が、祖父の業病、中風をうけついで、みじめな状態に陥ることを考えると、私は気が沈んだ。このままの父で死んでくれ、私は心からそう願った。  私の望み通り、父は父のままで死んだ。だらしない肉塊にはならなかった。だが、余りに早かった。  例年の通り、年末に伊勢大神宮参拝に行った父は、流行感冒を背負って来た。俗にスペイン風邪《かぜ》と云われ、大正八九年に大流行したあの風邪だ。  それはぐんぐん悪化し、宿痾《しゆくあ》の胃腸病がそれに拍車をかけ、九年二月初めには医者から危ないと云われた。  そんな頃、骨ばかりになった父は、側《そば》に坐っている私に「この、蜜柑《みかん》の枝を、除《と》りのけてくれ、痛くていかん」と云った。その意味を私はいろいろ考えた。そして「腰のところのゴムですか」そうきくと「おお、そうだそうだ」と父は嬉しそうに頷《うなず》いた。私は空気入ゴムの腰|あて《ヽヽ》の位置を変えながら、眼を明いていて云うことはうつつない父が悲しかった。十日程前はこんなではなかった。漱石《そうせき》の『吾が輩は猫である』を読んできかせると、黙ってきいていだが、しまいに「要するに駄《だ》洒落《じやれ》だな」と云われ、私は足ふみ外《はず》したように驚いたのだった。父は退屈などしてはいないのだ。しゃれたユーモラスな読物どころではない。自分万一の場合を考え考えて、頭ははち切れそうなのだ。しかし、今はもう、そんな思考力など、この眼からは窺《うかが》えない……。  二月八日の朝、父は私に向って、呼吸《いき》をきりきり、突然こんなことを云った。 「あの、お前も知っている、楠《くす》の箱な。あの中に、みんな判るようにしてある」 「ハッ」私は身体がガタガタ慄《ふる》え出した。何も云えなかった。母を呼びに飛び出そうかと、じっと父の顔を見ていた。父は暫くして、 「何でも、常識でよく判断するがいい」  そう云って眼を閉じた。その夕方父は死んだ。  二三日前、下曾我にいる妹英子から、一葉の写真を送って来た。郷里の、俗に「台畑」と云われる小高い丘から、西方箱根足柄の山山を越え、遥《はる》かに富士を望むキャビネ大版である。山の手前には、酒匂《さかわ》の川堤とおぼしきも見える。そして、写真機を据えたところは、その「台畑」の一|隅《ぐう》にある私の家代代の墓地なのだ。  そこには風雨に字を消された数数の墓石がある。父が祖父母たちの為に建てた社型《やしろがた》の墓がある。私が建てた父の墓碑もある。  東京駅から僅《わず》か二時間の郷里に、老いた母を置去りにして、私はもう六年も帰らぬ。都の陋巷《ろうこう》に徒《いたず》らな年を重ねて、私は一体何をしてきたか、何をしようとするのか。——一度帰ろうか、帰って墓地の草むしりでもしようか……   よしや身はうらぶれて  うろ覚えの詩句が、昔にかわる苦い情感とともに胸にうかんだ。 「かえるところに、あるまじや……」そう口に出してしまった。妻が、 「知ってる知ってる、それ知ってる。室生犀星《むろうさいせい》の詩でしょ」そう云うと、学校の読本を読むような調子でうたい出した。うたい終ると、 「どオです、うまいでしょ。このふるさとってのは、金沢のことなんだよ。室生犀星は、あたしと同じ金沢なんだよ。金沢には、徳田秋声だの、泉鏡花だの、えらい文士が大勢いるんだよ」 「金沢は、えらいよ、君もえらいよ」私はぼやけた声でそんな返事をした。祖父は、中風を恐れて酒は一滴も呑《の》まなかった。そして八十六まで生きたが、あのざまだった。俺は酒を呑む。いずれ卒中あたりで……しかし、俺が五十になったとして、こいつは一体いくつになるんだ、と、私は妻の膝《ひざ》で眠っている生まれたばかりの男の子供を眺《なが》めていた。 [#改ページ]   玄関風呂  或日、用達《ようたし》から帰って来ると、家内が待ち構えたと云う顔つきで、三円よこせと云う。ないと答えると、それなら直ぐつくって来てくれと云う。莫迦《ばか》に意気込んだ様子だ。 「まあ待て」と、突立ったままだった私は火鉢《ひばち》わきに坐り、煙草に火をつけた。例によってつまらぬ用で半日歩き廻り、その用はどうかこうか足りたが、疲れていた。腹も減っていた。  しきりにせかす家内をつかまえて、何に要《い》るのかときくのだが、なかなか云わない。 「とにかく、ものを買うのよ」 「だから何を買うのだ」 「とにかく大きなものなの、とっても大きいものよ。三円ぽっちのおあしであんな大きなもの、なかなか買えないことよ」 「大きいのは結構だが、ものは何だ」 「中がガランドウなの」 「なに?」 「中がガランドウになってるの」——蓋《ふた》があるとか、あたし一人じゃあとても持てないとか云っていたが、きいてみればつまり風呂桶《ふろおけ》なのだ。  一軒置いた隣りで引越しをする。某署の巡査だが、転勤になり、勤めの都合上移ると云う。それにつき風呂桶、これは中古《ちゆうぶる》を五円で買ったのだが、移ると要らぬから三円で引取ってくれ、よかろう——そんな話を家内は向うの細君と決めたのだ。 「煉炭《れんたん》風呂って云うのよ。煉炭を一つ入れとけば、あとは自然と沸くんだって。とても便利で経済で世話なしだって。三円じゃあ、とっても安いわ。買っていいでしょ。いけないたって、一旦約束したんだから、あたしが無理してでも買う」 「判った、つくって来る。——ときに、|めし《ヽヽ》を食わしてくれ」 「そうだそうだ、あたしたちたべちゃったもんだから、すっかり忘れてた」  食事をすまし、子供たちと遊んでいると立つのが億劫《おつくう》になったが、仕方なしに出かけた。夜の七時頃だった。  大観堂と云う古本屋へ行って、必要額をつくった。丁度古本ひやかしに来た碁好きの知人の顔を見ると、そのまま帰る気になれず、程近い彼の家で大分時を過ごした。帰ったのは十二時近かった。  門のない自宅《うち》の玄関先には、風呂桶とその附属品一式が置いてあった。私は折柄の月明りで暫《しばら》くそれをジロジロ見ていたが、帰り途《みち》でふと気付いた風呂桶の置場の問題を思い出すと、にやにやした。  家のものは皆よく眠っている。私は家内の枕元にきっちり三円の銀貨を置き、二階へ上ろうとしたが、思い直して家内の頭をゆすぶった。漸《ようや》く起き上って眼をこすっている家内に、 「風呂桶を買ったのはいいが、一体どこへ置くつもりだ」と云った。 「どこへ置くって? お風呂を——あ、そうか」と、急に目が覚《さ》めたように、家内は考え込んで了《しま》った。  とりあえず、玄関で風呂をたてることにした。  勿論《もちろん》風呂場のある貸家ではないから、買う前に風呂桶の据え場所は考えて置くべきであった。が、とかくもの事にそう云う順序を立てないのが家内の癖である。また、私にも幾分そう云うところが無くもない。  自家《うち》の南側には、庭と云う程ではないが、四坪ぐらいの空地がある。そこへトタン張りの小屋をつくることを先《ま》ず考えたが、これは簡単に取り止《や》めになった。何しろ金がかかるからである。次に、その空地に面した縁側に据えたらどうかと云う儀は、大分問題になった。が、これも水のくみ込みの不便さから駄目になった。その上、子供たちが中であばれたら、あたり一面水びたしになるだろうことを恐れた。  つまり玄関でたてることになった。玄関は一坪の|たたき《ヽヽヽ》で、火気の危険はなく水びたしを恐れる要もない。ただ、訪問客があった場合にいくらか不都合であるが、それはその時と云うことに相談が決った。  二三日|経《た》った午頃《ひるごろ》、私が起き出して階段を降りてみると、玄関には風呂桶が水を七分目程たたえて、もういくらか沸いている様子だ。 「どうだ、うまくいきそうか」 「二時間ばかし前煉炭入れたの。二時か三時にははいれるだろうと思うの」と得意満面の有様だ。私は少し意地の悪い顔をして、 「大家《おおや》は大丈夫かい」と云った。 「それが、今日は十四日でしょ、大家さん市場へ朝から出かけたのよ。帰りは夜中だから、それで今日を狙《ねら》ったの」と喜んでいる。  自家《うち》の隣りは、自家の大家なのだ。そして勝手口が並んでいる。だから、事事に——と云っても家賃を完納していれば文句はないところなのだが、とかく家内は大家に引け目を感じている。隣りは五十幾つかの後家だが、女手で中野の方に市場を経営し、この附近にも七八軒の貸家を持つと云う|しっかり《ヽヽヽヽ》屋である。二十貫程もある大女で、下唇《したくちびる》のつき出た顔をジロリと向けられただけで家内は縮んでしまう。そう云う大家を出し抜いて、玄関で風呂をたてるについては、家内は家内なりに苦心があるらしい。 「かずちゃん、かずちゃん」と五つになる長女を呼ぶ。 「なアに」出て来たが、「お風呂もうわいたの?」と子供の透《とお》る声で云う。 「大きい声出しちゃ駄目よ。あのね、今日|うち《ヽヽ》でお風呂はいるんだけど、川上の小母《おば》ちゃんに|うち《ヽヽ》でお風呂はいったって云っちゃ駄目よ。黙ってんのよ。そしてね、あばれないで、そうっとはいるのよ、いい?」 「うん、黙ってる。そうっとはいる」 「ほんとよ」 「うん」  そんなことをクドクド云っているところへ、誰か来たようだ。それッと云う調子で、家内は奥の方へ逃げ込んだ。『早稲田文学』の用で、谷崎精二氏が見えたのだ。 「やア、いよいよ玄関風呂ですか。風流ですな」 「風流ではないんです」と、内心私はいくらかふくれた。  二階で雑誌の要談一時間ばかり、一緒に出て近所の茶寮で茶をのみ、別れて帰ると、さあお風呂だと家内がせき立てた。  私が二つの男の児を洗ってやることにした。その間、家内は自家《うち》の外の路地のところで、女の子と遊んでいた。訪客の見張り役なのだ。  子供相手にばちゃばちゃやっていると、家内が張り板を外から立てかけた。 「見えるのか」 「少し見えちゃう。スリ硝子《ガラス》は不便だね」と、板をいろいろあんばいしている。  代って、家内が女の児と一緒に入った。私は男の児と路地のところで駈けっこなどしていた。  井上幸次郎が、ベッコウぶちの眼鏡を光らせて、せかせかと歩いて来た。 「やア」と、どんどん行きそうにするから、「待ってくれ」と引き止めた。訳を話すと幸次郎は面白そうに笑ったが、その場で用談をすまし帰って行った。暫《しばら》くして若い人が三人連れでやって来たが、これには、只《ただ》都合があるからと、一時間ばかりして来て貰うことにした。  玄関では五六回たてたろう。その間には、従前通り銭湯にも行っている。そんなことしているうち、だんだんと気候も暖かくなったので、風呂桶を裏庭にうつし、そこでたてることにした。別に囲《かこ》いはつくらなかったが、その代り、夜になってから入ることにした。  大家では、|うち《ヽヽ》でそんなことしているのを、疾《と》うに知っていた。|うち《ヽヽ》の女の児がしゃべってしまったのだ。或時、家内が台所で何かしていると、隣り合せの大家の台所口で、うちの児が大家と話している。——小母ちゃん、うちにはね、お風呂あんのよ。だけど、小母ちゃんに知れないように、そっとはいっちゃったのよ。だから小母ちゃん知らないでしょ——そんなことをしゃべっていたそうだ。うちの女の児は、身体《からだ》は小さいが、口はよく廻るのである。  家内は冷汗をかいたが、もう仕方がないから居直った形で、それからは大っぴらに水などくみ込んでいるのだった。 「あんまり銭湯へ行かないと怪しまれると思って、ちょいちょい行ってたんだけど、こうなればかまうもんか、じゃんじゃん沸かしちゃう。怒るかと思ったら、大家さんも案外もの判りがいいのね」 「もの判りがいいわけじゃあるまい、呆《あき》れて何も云えないんだろう」 「そうかしら」  そんなわけで、桶を裏に移してからは、大っぴらに湯を立てた。庭につづいて雑木の生えた崖《がけ》があり、崖の上は、ずっと自家に沿って路地になっているが、行止りだからあまり人の行来はない。簡単ながら塀《へい》があり、カラタチの垣《かき》もあるから、うちの風呂場はそのまま見透しと云うわけではない。が、注意して覗《のぞ》かれたら困るのである。それで大概、夜はいる。時には、近所の細君が入りに来ることもある。  或夜、何かの会で遅くなり、一時頃帰ってみると、湯が沸いている様子だ。いくらか酒に酔っていたが、私ははいることにした。私の親類の者で、酒をのんで湯にはいり、そのままになった男があるので、そう云う血統を自覚している私はつねづね気をつけていたのだが、酔ってはいる風呂はまた愉快なものだから、ときどきやる。  美しい星空で、降るような虫の音だ。初夏の夜の微風が、裸に快い。私は時時とまる藪蚊《やぶか》をたたきながら、いい気持で鼻唄《はなうた》などうたい出した。そのうち、浪曲や端唄《はうた》や、|うたい《ヽヽヽ》の真似《まね》まではじめた。  どの位たったか、突然路地の方から、 「オイオイ」と尖《とが》った声がした。お巡《まわ》りさんなのだ。 「風呂かね」 「風呂です」 「野天風呂だね。風呂には囲いをした方がいいね」 「します」 「それはとにかくとして、歌はいけないよ、もうそろそろ二時だぜ君」 「失敬しました、やめます」  お巡りさんは行って了った。私は急に面白くなくなって、さっさと風呂から上った。  二階に上って、窓からあたりを眺《なが》めていると、ふと直ぐ下の風呂桶に目が止まった。いつのまに出たか、月の光が風呂にさしこんでいる。私は蓋をし忘れて来たわけだ。  お巡りさんも驚いたろう、そう思うと私はまた面白くなってひとりニヤニヤしだした。 「うちでは玄関で風呂をたてているよ」  ある時|井伏鱒二《いぶせますじ》にそう云ったことがある。すると彼は目を丸くして、 「君とこの、玄関は随分|たてつけ《ヽヽヽヽ》がいいんだね」と云った。これには、こっちがまた目を丸くした。彼は玄関をしめ切って|たたき《ヽヽヽ》に水をくみ込み湯を沸かすとでも思ったのだろう。呆れた男である。その後、何かと云うとこれを持ち出し、彼を閉口さしている。 [#改ページ]  こおろぎ     一  まだ、こおろぎの鳴く音は聞かない。もう二三週間しなければ、彼らの季節は来ないだろう。彼らは今、まだ羽根もない小さな身体《からだ》を、草かげや、ごみの間にうろうろさせている。気にとめて見なければ、それが彼らだとも判《わか》りはしない。  毎日の習慣で、夕方、茄子畠《なすばたけ》を見廻り、|てんとう虫だまし《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》やその幼虫である|さるむし《ヽヽヽヽ》などを捜していると、茄子の根方《ねかた》に敷いた枯草の間から、幼げなこおろぎが飛び出した。長い触角の先が白い、それを活溌《かつぱつ》に動かしている。別につかまえる気でもなく延ばした私の掌《てのひら》に飛び込んだのでそれを捕え、茄子の害虫とりはもう止《や》めて家の中へ入ると、子供に虫籠《むしかご》を持って来させ、小さな奴をその中へ入れた。虫籠は、金網製の河鹿籠《かじかかご》で、数匹のニイニイ蝉《ぜみ》、カナブンブン、トンボ、それから一匹のクサカゲロウ——それらが雑然と入っている。子供たちが、手当り次第入れてしまうのだ。そして、蓋《ふた》の網が不完全なため、さらに布でつくった覆《おお》いをしてあるのだが、その部分に、クサカゲロウが、何かの隠花植物のような卵を生みつけている。ウドンゲノハナと云われる、あれだ。 「これ、こおろぎ——小さいのね」 「だけど、元気がいいや」 「だって、今入ったばかりなんですもの」  長女は女学校二年、長男は国民学校六年生で、この頃の学校の方針でか、虫とさえ見れば、直ぐ「観察する」などと云う。父親の私はまた、手作りの野菜類につく虫になやまされ、これを少しでも駆除しなければ、という実際的なことから、この頃虫どもに気をとられている。それが自然、子供たちの「観察」の手助けになっているようだ。 「君たち、何でもかんでも無闇《むやみ》と押し込むからいけないよ。ただここへ入れておいて、時時のぞき込んだりしたって、何にもなりはしない。蝉も、ブンブンも、大方死んでいるじゃないか」 「うん」と、二人は弱ったふうだ。 「うまくいったのは、このクサカゲロウだけだよ。こんなに卵を生みつけたろう。しかし、これだって偶然の成功で、君たちの手柄ではないね。この虫が雌《めす》で、しかも卵を生む時期になっていたところを捕《つか》まえるなんて、計画的には出来ないことだからね。それに、この虫は、こうして成虫になると、僅《わず》か半日か一日の命だそうだ。命の短いのを形容して、かげろうの如しというが、知っているかい」 「知ってるわ」 「僕知らない」 「蝉もブンブンも、ごろごろ死んでいるのに、命の短いカゲロウだけが、ちゃんと卵を生んでいる、つとめを果している。面白いものだね」 「——」  そう云ってから、子供たちには私の云う意味が十分のみ込める筈《はず》のないことに気づいた。私は少し語気をかえて、 「でも、偶然にしろ何にしろ、このカゲロウをつかまえたのは好かったね、誰がつかまえたの?」と彼らを勇気づけるように云った。 「圭《けい》ちゃんよ」と、長女が、わざと目を大きくし、子供ながらも苦笑らしいものをうかべるのだった。 「ふうん、圭ちゃんだったのかい」私が少し大きい声を出すと、それに応《こた》えて、向うの子供部屋で、 「そうだよ、圭ちゃんだよ、それつかまえたの」と二女の声がした。 「なんだい、圭ちゃん、そこにいたのか」 「うん、塗り画してんだよ」 「そうかい、おとなしいね。あんまりおとなしいもんだから、圭ちゃん居ないのかと思っちゃった」 「居るんだよウ」そういうと、六ツになる圭子が、何もかも抛《ほう》り出したという恰好《かつこう》で子供部屋から飛び出し、私にとびついて来た。父親の機嫌《きげん》の好さがはっきりと判り、その場の雰囲気《ふんいき》が自分にとって快適なものであることを知り抜いた様子だ。 「圭ちゃん、これ、よくつかまえたね。——どこでとったの?」 「電気の笠から、落っこったんだよウ、これエ」 「そうかい。よかったねえ。——ほら、こんなに卵生んだんだよ」 「知ってるよウ」  自信たっぷりの甘え口調だ。語尾に「よウ」とか「よ」とかを頻繁《ひんぱん》につけるのは、この地、私の郷里である南《みなみ》相模《さがみ》地方の日常語の特徴だ。それは東京で、「ね」とか「あのね」とかをしきりと使う、丁度それに代置されるものだ。東京で幼年期を経過し、すでに東京風の子供言葉を身につけて了《しま》った上の二人と違い、四ツの時この地に来た二女は、極《きわ》めて素直な受入れ方で、田舎《いなか》言葉を取り入れている。それが、こんな雰囲気だと、ことさらに出てくるのだ。私は、二女の、東京言葉を土台にした片ことの田舎弁を、何か耳新しい言語のように、可愛く聞くのである。 「圭ちゃんがつかまえたこの虫、綺麗《きれい》だね、うすい絹の布《き》れみたい羽根で、その羽根も身体もきれいな緑いろで、かわいい虫だね」 「うん、こんなの、こわくないや」 「お父さんが今つかまえて来た虫、ほら長いおひげの先が白くって、面白いだろう。小ちゃいけれど、元気がいいだろう。これ、こおろぎの子供だよ」 「ふうん、これ、こおろぎか」  そういうと二女は、ふと上目をつかい、もう虫籠には眼もくれず、何かの想いにとらわれるふうだった。その様子を見て私もまた、恐らくは二女を捕えたであろう想念の、水のように心をひたすのを覚えぬわけにはいかなかった。果して二女は云い出すのだった。 「もうせん、上野のおうちで、夜《よる》、こおろぎが鳴いたねエ、お父ちゃん」 「うん、鳴いた。よく憶《おぼ》えているね」  私は、二女の想いの邪魔をしたくない気持から、そしてまたそれの手助けをしたい気持から、そんなふうに受けた。 「そして、こおろぎに、圭ちゃん、おしっこかけちゃったねエ」 「うん、そうだそうだ」 「そして、朝、お父ちゃん、ご病気になっちゃった」 「そうそう、みんな覚えているんだねえ、圭ちゃんは」 「防空|壕《ごう》の上の、豆の中に、こおろぎが鳴いてたんだねえ、そして、蚊帳《かや》から出て、圭ちゃん、おしっこかけちゃったねえ」  目を空《くう》に向け、記憶の糸を辿《たど》っている子供の表情には、真剣なものがあった。     二  二年前の八月末、それまでどうやら動いていた身体が、いよいよ続かなくなったらしく、朝、煙草の行列買いから帰って、息深くいっぷく喫《す》うと同時に、気を失うようにのめってしまった。  日記というものは昔からあまり書いたことのない方なのが、この昭和十九年という年は、元旦から大体休まずつけ通していて可笑《おか》しい。それを繰ってみると、一月十八日の項に、「相撲協会の招待にて春場所八日目を見物にゆく。H・O君に逢う。胸痛募り、O君と話す気力も無し。三十分ほど居て辛くも帰宅す。外出は禁物なり」とあるのが始めで、以後、病苦について何か書かぬ日が一週間とつづいたことはない。だが、「外出は禁物」と云いながら、日記によれば私は可なりよく動き廻っている。世の一般的騒騒しさ忙しさは云うに及ばぬとして、私個人としても多事な一年であった。婚期の遅れた妹が結婚した。それは一月のことで、慶《よろこ》びごとには違いなかったが、私はそのことで大分疲れた。実際はその頃から病人だったのだ。一月二十八日には、N・S先生をお訪《たず》ねしている。病人たることを自覚し、当分郷里に帰って静養する気になり、お別れのつもりで参上したのだ。そして翌二十九日には帰郷し、日記にしるしている——「下曾我《しもそが》行。当分静養の予定。東京にいては、雑用多く、客多く、安居のいとま無し」  だが結局、落着いてはいられなかった。私は郷里と東京との間を忙しく往復した。つまらぬ用があとからあとからと起った。やがて七月末には、親しい友Y・Aの死に逢い、やせ我慢の気力を削《そ》がれた。  日記、七月十一日。「午前中、松枝をともない、Y・Aを日大病院に見舞う。胃潰瘍《いかいよう》にて危うかりし由。峠は越したりと云う。見るに、衰えて、油断なりがたき様子、回復を祈るや切なり。松枝、細君に玉ネギを送る約束す。日本刀を研屋《とぎや》に渡す。午後三時五十五分にて下曾我へ。松枝東京駅まで」  Y・Aは、手術後の経過いいとのことで、本人は全く回復途上にあることを信じていたようだ。彼は、私の顔色を見て、逆に私をたしなめた。事実私は、外出先でいつ倒れるか判らぬ気がされ、少し遠路と思われる場合は用心のため妻をともなうことにしていた。その日もそうだった。日本刀のこと、これは、妻の弟(当時二十一歳)が陸軍の戦闘機乗りで、前戦へ出るのも近いと思われ、その餞《はなむ》けにするためのものだった。私はその前の日の七月十日、某会館でのある会合に出席し、大本営陸軍部のA中佐から、サイパン島守備隊全員玉砕ということをきいていた。新聞に出たのは、十九日だ。  日記。七月十九日。サイパン島守備隊玉砕の公表。痛憤にたえず。何とかならなかったものか。この日、隣家にて、昼から酒を呑《の》んで騒げるあり、糞土《ふんど》の牆《しよう》はぬるべからず。  日記。七月二十日。東条内閣総辞職の報。学童疎開実施にともない、全家下曾我へ疎開のこと決意す。この病体にて東京に踏みとどまるも一益なければなり。  日記。七月三十日。夕方六時半、ユウシスの電報。夕食中なりしが、箸《はし》をおきてしばし呆然《ぼうぜん》たり。外出の支度《したく》にかからんとせしが、思いとどまる。身体工合悪ければなり。  日記。七月三十一日。早朝、松枝下曾我行。K・T君来。Y・Aの追悼記を「文学報国」に書けと。午後、自分、Y・A宅へ向う。帰宅夜九時。松枝、三時頃帰京せし由。  日記。八月一日。身体、起き上らず。一日横になっていた。  日記。八月二日。Y・Aの通夜にゆく。夜十二時頃帰宅。  日記。八月三日。朝、S・Tの留守宅にて、細君産気づく、直ちに木川病院へ。九時頃男児安産。松枝それにかかり切りなり。午《ひる》過ぎ、松枝、代理としてY・Aの告別式へ。自分行きたかりしが、動けず。  主として、Y・Aの死に関した記事を抜いてみたが、それにからむように、その頃は疎開についての雑用が多かった。男児安産というのは、私どもで仲人《なこうど》をした若夫婦の宅のことで、良人《おつと》は一と月ほど前出征し、細君一人、私どもの真向いに住んでいた。その面倒はすべて見なければならなかった。  この頃、上の子供二人は、すでに郷里の方にやってあった。その世話を、老母一人に任せるわけにゆかず、妻は一日おき位に郷里と東京とを往復していた。私も重い身体を無理に、往ったり来たりした。  日記。八月二十一日。午少し前、武治《たけはる》(妻の弟)来。日本刀を渡す。彼喜ぶ。ただ、松枝不在(下曾我なり)なるを残念がる。夜、K・K君来。身体工合悪し。  日記。八月二十二日。K・K君来。書籍を少し払う。  日記。八月二十三日。朝、松枝、圭子帰京。午前中、T・T君来。松枝、T君同道、下谷区役所へ。全家疎開届出。T君借家の件、不能。  日記。八月二十四日。一枝、鮎雄の移動申告完了。午後、松枝、圭子、下曾我へ。  日記。八月二十五日。米配給所へ通帳持ちゆく。極《きわ》めて大儀なり。  日記。八月二十六日。松枝、圭子、帰京。下曾我方面、移動申告無事完了の由。  日記。八月二十七日。疎開荷物再整理、すでに大分運びしが、ガラクタ相当にあり。この十日ほど、身体工合|宜《よろ》しからず、どうも肋膜《ろくまく》悪化せるらし、ただの神経痛でなし。戦局また思わしからず、心安からず。  日記は、次の二十八日が空白で、二十九日の条に、——昨夜胸部激痛。今日は終日|横臥《おうが》す。松枝を下曾我へやる日なれど、不安なれば、明早朝帰京すべしと命じて発《た》たしむ。圭子を自分引受けることにし、これを抱いて寝につく。——そう記し、次の日からは、妻の字で何か書いてある。     三  圭子が、もうせん上野のおうちで、というこおろぎの記憶は、だから一昨年八月二十九日の夜のことになる。 「お母ちゃん、おしっこ」という子供を抱きかかえ、蚊帳を出て雨戸を繰った。月はないが星はあった、縁先の防空壕の覆《おお》い土に、今はすがれ気味の隠元豆《いんげんまめ》が十本ほど、室内からの明りをうけて、葉もそよがせずいる。リリリリという静かなこおろぎの鳴く音が、その根方《ねかた》からしている。 「お父ちゃんだったのか、お母ちゃんは?」  抱《かか》え方の違いからか、それとも体臭でも違うのか、半眠りだった子供が、ふと気づいたようにそう云った。 「ああ、お父ちゃんだよ。——お母ちゃんはねえ、下曾我だよ。ほら、今日のひるま、圭ちゃん、おとなしくしていらっしゃい、泣かないでお留守していたら、とうもろこし、沢山持って、あしたの朝早く帰りますよって、そう云ったでしょう、覚えてる?」 「うん覚えてる」 「えらいね。じゃあ、おしっこして、またおとなしくねんねするね。——さア、こおろぎがないている、あのこおろぎに、しゅうって、おしっこかけてやろう、おもちろいね」 「あれ、こおろぎ?」 「うん、こおろぎだよ」  そんなことを云い云い、下ばきを脱がせ、姿勢をととのえ、子供に小便をさせた。 「そうら、こおろぎにおしっこかけちゃった。おもちろいね」 「うん、だけど、こおろぎ、まだないてるでしょ、ほら」 「うん。ないてるね。だけど、こおろぎは、泣きむしだからね。圭ちゃんは泣かないね」 「泣かない」  そうと決まれば肚《はら》は据えた、とでもいうような四ツの子供の様子に、私は安堵《あんど》すると同時にいじらしさを感じた。私は子供に手枕をし、布団をかけてやりながら、静かなかなしみに落ち込んで行くのだった。  それは、われながら、平凡で単純な感情だった。あらゆる可能を信じ、野心で胸をふくらませた若い頃であったら、無理にも鼻であしらおうとしたに違いない感情であった。しかし私はもはや、自分の偉くないことを身を以《も》って知り抜いた、病弱な初老の男なのだ。身の程を知ったからには、身のほどだけの矜持《きようじ》はあっても、それからはみ出した見えや外聞は、自分自身に対してすらもつ気がなくなっている。  子供はいつか私のふところへ手を入れ、もうおだやかな寝顔だ。それを見ていると、もののいのちというものの不思議さが、今初めてのように、思いめぐらされるのだった。そしてこういう場合、すべての親たちがそうであろうように、私は謙虚であり、善良であった。そうして、ふと気づくと、自分には悪気はなかったんだから、ただ愚かだっただけなんだから、——そんなことを繰りかえし思っているのだった。つづいて、可なり発熱していることに気づいた。身体はだるいだけで、直ぐ起りがちな右胸部、右肩、右腕にかけての痛みはなかった。  翌朝倒れて、私が何かうめき声を上げていると、子供が眼をさまし、そばに寄って来て、「お父ちゃん、痛いの?」としきりにきいた。私は「もう直ぐ、お母ちゃんが来るよ」と、無理な努力で云ったが、それは子供への云いきかせであると共に、明かに自分自身への力づけであった。私は時時、時計に眼をやり、切に妻の来着を待った。やがて、朝の郵便が投げこまれた。圭子が、「ハイゆうびん」と持って来た中に、私の書いたY・Aへの追悼文の載っている「文学報国」があった。妻は予定通り、八時頃やって来た。  十日間の絶対安静の後、少しずつ元気が出、九月二十二日には、近所の床屋へ歩いてゆくことが出来た。そして、十月いっぱいには、疎開をはたすことが出来た。二十数年ぶりで私は郷里の家に落着いたのだった。     四  去年の夏の終り頃、こおろぎのなく音をききつけ、二女が「あれ、こうもりだ」と云ったことがある。 「あの、鳴いているのがかい?」 「うん」 「ちがうよ。こおろぎだよ」そう長男に直されると、「うん、そうだ、こおろぎだ。圭ちゃん、間違えちゃった」と素直に受入れた。そして、「もうせん、上野のおうちで、こおろぎ鳴いてたよウ」と云い出したのである。私は、二女の記憶の確かさを思ったが、それよりも、幼ない頭にこのことが何故《なぜ》そんなにしみ込んだかを考えぬわけにいかなかった。私自身のあの時の感傷は、平凡でもあり単純でもあったが、それだけに感深いものがあった。しかし、それは私の勝手で、子供の知ったことではあるまい。——が、事実は、子供の頭の中に生きていて、今でも鮮《あざや》かに空に描かれるようだ。何故だろう? あの時の雰囲気《ふんいき》の、ただならぬものであったことを、子供の心で感じとったためであろうか? 私にはよく判らない。  更に一年|経《た》った今、子供はまたそのことを云い出した。云い出されて、私は、実のところ嬉しかった。何かこの子供との間に、特別な、血肉以上のつながりとでもいうようなものがあるのかも知れぬ——そんな可笑《おか》しな考えさえふと心をかすめるのだった。  やがて虫籠は飽きられ、夕食も済むと、長女を除く二人はもう眠がり出した。長女は何か学校の勉強にかかり、妻は縫物をひろげた。 「圭子が、二年前のこおろぎのことをよく覚えているのは不思議だよ。どうしたわけだろう」 「さア」と妻はいい加減な返事だ。私も別に、妻から返事を期待してはいないのだ。ただ、その時のことを云ってみたかっただけなのだ。 「だが、あの時は、一寸《ちよつと》覚悟をしたねえ。若《も》しかしたら、と思ったなア」 「あたしも、危ないと思いましたよ。だって、たった一晩見ないうちに、眼が窪《くぼ》んで、小鼻が落ちて、土気色《つちけいろ》なんですもの」 「しかし君は、最初から笑っていたぜ、びっくりするかと思ったら、にやりと笑ったぜ、あの時」 「それは、あたしの変な癖なんですよ。娘時分に、母の代理で告別式なんかに行くでしょう、すると、お悔《くや》みを云いながらにこにこしちゃうの、それで困ったんです」 「ふうん。——笑う奴が本当は怖《こわ》いのだというね」 「そんなんじゃないんです。誰それさんが死んだ、あらそうお! って笑っちゃうんだから困りますよ。だんだん直りましたけど、たまには出るの。あなたのあの時も、その伝《でん》よ」 「いやな伝だね」私は云ったが、しかし判らぬこともないと思うのだった。が、そのことは切捨てて、 「こおろぎにもいろんな奴があるのだろうが、リリリリと静かに鳴く、あいつなんだよ、圭子がきいたのは」 「何とかでつづりさせ、というんでしょう」 「うちのおふくろの説では、肩させ、すそさせ、寒さが来るぞ、と云うんだそうだ」 「コロコロと大きな声でなくのがありますね」 「エンマコオロギという、身体の大きな奴だ。あいつはちっとも秋らしくない」  そんなことを云いながら私は、自分がこの頃、虫だとか草だとか、そんなものに心を惹《ひ》かれがちなことを思っていた。害虫駆除だ、などと云いながらも、関心を持つのは野菜畠にかかわりのある虫だけとは限らなかった。小さな虫ども、わけの判らぬ雑草たち、そんな、今まで気にもとめなかった小さな弱い者たちが、小さいなりに元気よく動き廻り、生きてい、謂《い》わば生存を主張しているのを見ることが、何か嬉しいのだ。それを見ることによって、私はある安心を感じている——と、そう云えそうなのだ。  つまり、俺は、弱っているのだ、参っているのだ、と私は思う。一番判り易《やす》いところでは、身体の衰えに因《よ》るだろう。これは目に見えることで、ごまかしようも無い。次には、戦争に敗けたこと、そしてそのあとの世の様、これが気力を萎《な》えさせる。新生と再建がしきりと云われ、私といえどもそれを思うことでは人なみと信じはするが、実際上手も足も動かぬ状態なのだ。 「それはよくないね」「よくないのは知っている」 「元気を出せ、積極的になれ」「今のところなれない」 「それではどうするつもりだ」「どうもしかたがない」 「そのしかたがない、というのがいけない」「いけなくても、しかたがない」  自問自答は堂堂めぐりだ。 「私の生涯は『出発まで』もなく、そうしてすでに終ったと、今は感ぜられてならない。古《いにしえ》の山河《さんが》にひとり還《かえ》ってゆくだけである。私はもう死んだ者として、あわれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書こうとは思わない」  去年の秋、私はある雑誌で、K氏の右の言葉を見つけた。戦終って吐かれた作家の言葉のうちで、最も美しいと思ったものの一つであった。が、新生、再建の逞《たく》ましさを、ただいたずらにのぞみ見るだけの今の私には、K氏のこの言葉にもまた羨《うらや》ましさを感ずるだけである。この言葉には、有情極《うじようきわ》まっての非情|鏘乎《そうこ》たる響きがあり、歯切れがよく、むしろ颯爽《さつそう》とさえしている。激情と非情の間《かん》、凡情にまみれてうろうろしている私には、こんな水際《みずぎわ》立った言葉は吐けない。私の仲間は、小さな弱い生きもの共だ。——私は、もう安穏な顔で寝入っている子供たちをふとかえりみた。今小さく弱いこいつらは、いったいどうなっていくのだろう。それを俺は見届けたい。俺が居なくなったあとどうなるか、という心配ではない、こいつらがこいつらなりに有《も》ついのちを、どう生かしていくか、それを見届けたいというのだ。そして、こいつらは、日本の子供なのだ、だから俺は、何ものにも何ごとにも、非情にはなれはしない。 「K氏には——たしか、子供が無かったようだ」ふと私はそう思った。つづいて、「この調子なら急なことはありません、五年や六年は大丈夫です」私の身体について、妻にそっと云ったという或る医師の言葉を、私は思い出した。  抛《な》げ出された虫籠を手にとってみると、クサカゲロウもいつか死んで、蝉やカナブンブンの死がいと仲好く並んでいた。生み残されたウドンゲノハナは、依然と植物のようだ。ひげの先の白いコオロギの子供は莫迦《ばか》に元気で、むやみと跳《と》びはねていた。 「こいつはいったい、|肩させ《ヽヽヽ》の子供か、エンマコオロギの子供か——」 「さア」  どうせ妻には判りはしないのだ。私は、|肩させ《ヽヽヽ》と鳴く方の子供と決めた。もう二三週間したら、彼らは、寒さが来るぞ、と鳴くだろう。 [#改ページ]   痩《や》せた雄鶏《おんどり》     一  ラジオが、「ロンド・カプリシオーゾ」というヴァイオリンのレコードをかけたので、ああ、あれか、と聞いているうち、妻が台所の方から出て来て、いきなりそれを止めたことがある。 「なんだ」と緒方は云ったが、その時の彼は、怒ったというのではなく、妻の突然のそんな振舞いが何に由《よ》るのか、咄嗟《とつさ》にはのみ込めず、いくらか唖然《あぜん》としたのだった。妻の、変に気負った顔を、緒方は眼を丸くして見つめた。 「ごめんなさい。——だけど、これ、止《や》めて……」と云う。何だか哀れっぽい表情になりかかっているその顔を見ると、緒方は、何はともあれ、という気になり、 「止めてかまわないよ。——しかし……」 「こんなの聞いてると、いやになるんです。もう、何だか、いやアな気持になっちゃうんです」  そのいやアな、という言葉には、莫迦念《ばかねん》を押した、何かつっかかるような調子があり、緒方も否応《いやおう》なしに|ずり《ヽヽ》下げられる感じだった。 「ふうん。——止めた方がいいんなら止めておきたまえ。俺は別に……」 「すみません」そういうと泣き顔じみた表情になり、それをかくすように、また台所の方へ行ってしまった。  何かわけがあるに違いないが、それにしても、突飛な振舞いをするものだ、と、謂《い》わば毒気を抜かれたかたちであった。天井をまじまじと眺《なが》めながら、思い当ることもあろうか、と、緒方は考え込んだ。急に考える種を与えられたことで、何となく生き生きした気分になっている自分を感じた。  他人《ひと》が、面白そうに(——面白そうであろうとなかろうと、とにかく)聞いているものを、断りなしに止《と》める、などということは、大抵のうちでしないだろうように、緒方のうちでもやらない。もっとも、たまに緒方自身がそれをやることがあるが、その場合は、別に苦情も出ない。何か理由なり、都合なりがあるのだ、と、家人は暗黙のうちに納得する。もとより、緒方が、理不尽にそんなことをするわけもないからだが、一つには、健康だった時分から、彼が音響に対しては極《きわ》めて敏感なたちで、病気以来、更にそれを昂《こう》じさせていることを、家の者たちがよく知っているからだ。  ——来る日も来る日も、自分はこんなに忙しく動き廻っているのに、いかに病気とは云え、一日中横になって、それもいいが、気楽らしく音楽なんかかけて——と、妻の気持を、そんなふうに想いはしなかった。その時の妻の態度に、少しでもそうとれる節《ふし》があったら、彼は遠慮なく呶鳴《どな》り出していただろう。緒方の妻も、判らず屋は判らず屋なりに、緒方と十六七年も暮らして、もう三十六になり、女としてはそろそろ分別も出ようという年頃なのだ。緒方のいろんな癖も、大抵|呑《の》み込んでいる筈《はず》のものだから、そんな子供っぽい肚《はら》でいるわけもなかろう。すると妻の気持を刺戟《しげき》したものは、いったい何なのだ、と、緒方は何か面白い謎謎《なぞなぞ》でもかけられた思いがした。  それからそれと考えの枝葉を茂らせていると、妻が静かに入って来て、今度はラジオのスイッチを入れた。そして、少しはにかんだ調子で、 「さっきはすみませんでした」と云った。 「ああ」と云っている緒方の耳に、誰か政治でもやっている人間のらしい、妙に錆《さび》のある、どこか手垢《てあか》だらけという演説口調がいきなり飛び込んだので、彼は慌《あわ》てて、 「止めてくれ」と云った。それが、いかにももっともに聞こえたらしく、妻は笑い出し、スイッチを切ると、雑用一段落といったいつもの恰好《かつこう》で、病牀《ねどこ》わきに坐った。 「もう、音楽、終っちゃったのね」 「つなぎのレコードなのさ。——あの曲も昔、持っていたなア。好きなうちの一つだった、あれは若いもの向きだ」 「綺麗《きれい》な曲ね」 「それを、どうして止めた」軽い調子できく。妻は、苦笑に似たものをうかべ、尻込むふうだったが、緒方に眼付でうながされると、 「聞いていられなかったの。何ていうか、とても手が届かないような——」 「あんまり綺麗でか」 「そうなの。何だか、なさけなくなるんです。——ああいうのを聞くと、こっちのみじめさが、いっぺんに……」 「判ったよ。やっぱりそうか」 「でも、思い返しました。——思い返したというより、かッとなったのが、自然と納まったのね、もう大丈夫よ」 「うん」  返事にならぬ返事をして、緒方は暫《しば》らく黙っていた。やっぱりそうだった、と思う。そして、思いがけぬ、一寸《ちよつと》したいいことがあったような心嬉しさを感じていた。 「かッとなるのは、いいことだよ。たまには、かッとならなくちゃあ、いけないね。われわれの生活なんて、どう考えたって、これで好いとは思えない。こんなものじゃない筈なんだよ、ほんとの生活ってものは。俺たち、子供の頃、どんなことを考えていたろう。その時分の考えを、甘い空想と片づけるよりも今の現実に腹を立てる方が本当なんだと俺は思う。みじめで、うすぎたなくて、らちもないよ。そいつを、不意に思い知らせてくれるもの、ぱッと輝《て》らし出してくれるもの、今、君の場合は、ロンド・カプリシオーゾというヴァイオリン・ソロだったけど、そういうものが、やっぱりあるんだな」  云ってから、少し調子づき過ぎたようだ、と緒方は自分ではにかんだ。 「あたしには、はっきりした筋道は判《わか》らないけど、感じはそうなんです。——こんな筈じゃない、こんなことってない、これは、悪い夢を見てるんだ、という気持がするの。……でもね、あなたやあなたとの生活がどうこうと云うんじゃないの。それに、あたしやあなただけについて、どうこう云うんでもないの」 「云いわけは要《い》らないよ。こっちもしないがね。——どっちを向いたってそうなんだ。みんな似たりよったりじゃないか」 「人間て、生れ変れないものかしら」 「——来世が、あるか無いかというのかい」 「ええ、大体」 「俺はまア、自分としての考えはあるが、しかし、君は生れ変れるよ。大丈夫だ」 「そうだとほんとに好いんだけど——ああこんなこと、随分失礼なわけね、あなたには」 「そんなことはないさ。失礼と云えば、お互いさまだ。——俺としては、毎日生れ変る、という手を考えているんだが、どうもうまくいかないようだ」 「毎日生れ変る——」 「そうだよ、来世と云わず、この世で、死ぬまで毎日、時時刻刻生れ変るという寸法なんだが、そいつがどうも——」 「あ、そうか」 「君も、さっき生れ変りかけたわけだね」 「そして、流産ですか」 「あれは、まんざら、流産とも云えないんじゃないかな」 「そうそう、流産と云えば、山村さんのおロクさんが、子供三匹産んだそうよ。一匹|頒《わ》けて貰《もら》いましょうか」  緒方はうろたえたが、とにかく調子は合わせた。 「牡《おす》だと困るぜ」 「ですから、牝《めす》を貰うの」 「牝を離すかどうか。それに、飼うとなると、餌《えさ》が大変だろう」 「乳が毎日とれるとなれば、餌ぐらい、何でもありませんよ、何とかなりますよ」  話は隣家で飼っている山羊《やぎ》のことに急転した。昨日産んだのだが、早く申入れないと、|よそ《ヽヽ》へとられる、と、病人のため乳の工面《くめん》で苦労しつづけの妻は、せかせかし出したのだ。緒方は少し拍子抜けの気味だったが、これで一|先《ま》ず納った、と肚《はら》で苦笑した。妻は、完全に、その日常に帰ったのだ。     二  すでに四年越し寝ている緒方の身体には、あっちこっちと故障が出るのだが、覿面《てきめん》にこたえるのは、肋間《ろつかん》神経痛であった。その痛みは、多く冷えと湿気によって誘発されるようだ。過労も勿論《もちろん》いけないが、病人たることを一寸の動きにも思い知らされつけた緒方の起居には、時たま、のっぴきならなくて書く原稿の仕事以外には、過も労もないのだった。彼がよく働かすのは、寝たまま、動かすことの出来る、手と口だけだった。だから、それらの機能は、さして衰えたふうにもないのだが、腰から下は、われながら見るかげもなかった。背中は見えないが、風呂で流させるとき、妻か長女が、「洗濯板」などと云う。なるほど、背中を上下する手拭《てぬぐい》がゴリゴリとそれらしい音を立てることがある。八ツの二女が、ある時、風呂から上った緒方を見て、「お父ちゃんのお尻、無いよ。もとは有ったんだねえ」と云った。 「運動が出来ないもんですから、尚《なお》のこと足が細くなっちゃうんですよ、こんななんですよ」と、指でも丸めて見せたらしく「その細い脛《すね》を、家中でかじっているのかと思うと、いやになっちゃいます」——ある時、勝手元で誰かにそんなことを云っている妻の大声を、緒方は、うつらうつらしながら聞いた。  足が細かろうと、尻の肉が落ちようと、緒方はさほど閉口もしないが、神経痛の痛みの激発には、いつも降参する。その痛みを、烈震、激震、強震、弱震などと地震になぞらえているが、激震ぐらいになると、血液が身体の奥の方へかくれた感じで、手足は冷え、頭だけが熱っぽく、身体《からだ》中、特に額や首筋から膏汗《あぶらあせ》をふき出す。冷えた手足を縮め、自分の胸を抱き、うめいている外に法はないのだ。痛さの余り、えい、と思っても、あばれる力はなく、口をきく元気もない。  それが、強震となり、弱震にまで来ると、甚《はなは》だ快適な気分になる。痛みが弱まったということもだが、それよりも弱まりつつある、という意識の方が、はるかな喜びなのだ。そうして、あれほどの痛みが、うそのように治まった時は、非常な幸福感を覚える。 「考えてみればつまらない話だよ。痛みがなくなると、ひどく嬉しくなってしまうんだが、健康人には、これが当り前なんだからね。ひどくマイナスだったものだから零《ゼロ》のところへ来ると、うんと得をした気になる。つまらんね」  そんなことを不服らしく云いながら、云っている声音《こわね》は、ひどく上機嫌《じようきげん》なのだ。  ——なるほど、ある苦痛を堪えるためには、更に強力な苦痛を加えればいい、との理窟《りくつ》も実感として成り立つ筈だ、と緒方は思った。そして、苦痛の極《きわ》まったとき、そこに神を見る、ということにもなりそうだ。ある種の求道者《ぐどうしや》は、救われんがためにあらゆる苦行を自己に課する、苦痛を追いかける。この伝で救われるために、堕《お》ちろ、などとも云えそうだ。——しかしそれは偏知奇論らしいぞ、と緒方は押し除《の》ける。俺は、今までにも多少|辛《つら》い目に会い、今も会っているが、俺のは、苦しみや悩みをこっちから追いかけているのではない。今までだって、ついぞ追っかけた覚えなんか、ありはしなかった。ごめんごめんと、一目散に逃げる俺を、むなくそ悪い奴が、無表情で音もなく追っかけてくる、俺は忽《たちま》ちつかまってしまう、そういう仕組なんだ。  痛くも苦しくもないのが一番だ。救われる必要なんかないのが第一等じゃないか。——だがしかし、そんなことはどうでもいい、痛みが治《なお》ったということは、何といいことだろう。只《ただ》単に、身体が痛くないというだけのことが、こんな幸福感を俺に持ってくるとは、いったいどうしたことだ。なるほどこれでは、世の気散じな連中が、退屈まぎれに、こういう幸福感を求めるだけのために、無理にも苦痛を追っかける、ということもありそうだ。ほんとの病気を知らぬ、豚のように健康な男たちが、病気になりたがり、病気のふりをする、後生楽。俺は、そんな倒錯作業は真平だが——。いやしかし、そんなことはどうでもいい、俺は今、幸福なんだ。……  ああ、そうだ、と、緒方は憶《おも》い出すことがあった。  何日か前のことだ。軽震か微震程度の右肩を、長女に揉《も》ませていた。このぐらいのとき、先手を打って揉めば、痛みは割りに簡単に治まるのだ。緒方は、うつらうつらしている。長女は、緒方の身体の上にその日の新聞をひろげ、ときどきそれをごそごそ云わせて居た。外流《そとなが》しの方で、緒方の妻の歌声がしている。もうさっきから、いろんな歌をつぎつぎとうたっているのだ。合の手に水音が入るのは、何か洗濯をやっていると見えた。  長い間黙っていた長女が、不意に、 「お母アさん、上|機嫌《きげん》ですね」と云った。 「そうらしいね」  それだけで、また大分黙っていた。黙っている父娘《おやこ》の耳に、無心とも云っていい母親の歌声がつづいている。田舎《いなか》の、障子に半分ほど陽差しのある静かな午後だ。  やがて長女が、 「お母アさんはね、お祖母《ばあ》ちゃんが居らした時分、歌がうたえなくて困るって、あたしに云ってたのよ」 「ああそうか、なるほど」と緒方は笑い出した。 「歌い出しちゃってから、はっと気がついて、慌《あわ》ててやめるの。いつもよ」 「うふん、滑稽《こつけい》だね。それで今は、気兼ねなしに歌い捲《まく》っているわけか。——しかし、歌をうたっているのは御機嫌な証拠で、仕事ははかどるし、おまけに、あんたたちに小言が出ないから、結構なことだよ」そう云うと、算《かぞ》え年十七の長女が、うふん、と笑った。 「流浪《るろう》の民」や「荒城の月」から始まって、昭和初年頃の女学校歌があれこれと並び、少しハイカラになって「かえれソレントへ」なぞが出て来た頃には、子供三人が毎日丹念に汚して出す洗濯物も大体はかたづいたと見える。すすぎ上げた奴を白い大きな洗面器に入れ、緒方が寝ている八畳の縁外《えんそと》にやって来ると、 「お目障《めざわ》りでしょうが、一番陽当りがいいから、ここへ万国旗掲揚です」と云った。 「いいよ、掲げたまえ。——和《かず》ちゃん、手伝いなさい」  長女が緒方の肩から手を離し、縁側に出ると、さっきからの母親の歌にかぶれたらしく「かえれソレントへ」を歌い出した。忽ち母親が和したから、緒方の枕もとはひどくやかましいことになった。 「おいおい、ここで音楽会を開かれては困る、早く乾物《ほしもの》をかけちゃってくれ。歌は、向うの方でやってくれ」 「入場料無しですよ」 「金をもらっても厭《い》やだよ」 「はい。——和ちゃんの声は駄目ね、折角だけど、和ちゃんが合唱すると、ぶちこわしよ」 「でも、節は、確かなのよ」 「節は確かだって、声がゾプラノじゃあ」  小さい頃から、時時|頓狂声《とんきようごえ》を出すので、あんたのは、ソプラノじゃなくて、ゾプラノよ、と云われている長女だった。  それで歌は止《や》み、洗濯物は八畳の|のき《ヽヽ》下いっぱいに手早くかけ並べられ、長女は再び緒方の肩にとりついた。障子には、万国旗のかげ。——  そのときの情景が、緒方の中にぽかりと浮んだのだ。彼はそれを柔かな目つきで眺めながら、あいつはきっと、こういうときが一番いいんだな、と思った。あとからあとからと|きり《ヽヽ》のない子供たちの汚れもの、それを、あきもせずじゃぶじゃぶやっている——無心な歌声が示す放心状態、この上なく|らち《ヽヽ》もない作業への全くの没入。あれは、くすぶりの一つも無い、完全燃焼だな、と思った。そうなれば、作業の|らち《ヽヽ》のあるなしなんか、すでに問題ではない。俺は、ああ俺には、こういう状態は、残念ながら、滅多にやって来てくれはしない。——     三  そういう緒方の妻でも、稀《まれ》に、現実生活への厭悪反撥《えんおはんぱつ》、強く云えば絶望感、そんなものを激発させることが無いのではない。この文の冒頭、ラジオをいきなり止めたくだりは、最近演じられたその例の一つだ。  そこで、先ず、緒方という、五十になった、そして病弱な生涯を経て、今は全くの病人である、小説書きを業とする男。  緒方昌吉は、平凡な家庭人だ。世間的に見て、そんなに悪い良人《おつと》でもなく、憎たらしい父親でもない。——少なくとも、彼の気持としては、そうだ。  緒方昌吉は、二十の頃、丁度現在の彼の年頃だった亡父と、人生や生活に対する考え方の相違から、争いを起こした。それは、ひと口に、思想上の争い、と云ってもいいのだが、そんな言葉は使わぬ方が彼の気分に合うので、漠《ばく》とした云い方にしておく。争いの最中父親が病死したから、彼は労せずして当面の問題から解放された。直ぐに、父親の厳命でそれまで入学を遠慮していた東京のある学校に入り、つづいて適齢で徴兵検査を受け、第二乙未教育補充兵というものになった。三四カ月のうちにぱたぱたとそんな経験を積むと、彼は急に大人《おとな》になったような気がし、幼時から跡取りとして父親の次に位する家庭的地位を与えられて育った気風も大いに手伝って、たやすく一家の長らしい気分に落ちつくことが出来た。父親在世の頃から、二人の弟、二人の妹はもとより、母親でさえ彼の手に立つ相手ではなかったから、このことは、全く自然な成り行きであった。  極めて横暴な、一面可なり寛大な、一人合点の物判り好さを持つ、若い家長が出来上った。横暴というのは、こうと思い込んだことには、誰の口出しもうけつけぬ、ということだ。何でも彼でも横車を押すというのではなく、ことの決定まではあれこれ思案し、はたの意向も参酌《しんしやく》するが、決定したとなると、もう動かぬのだ。寛大さは、そういう自分を押し通すことによって、自然と出てくる。だから彼は、いつもにこにこしていた。大体|我儘《わがまま》が通るのだから、にこにこしていられるわけである。良い息子であり、良き兄であり、学校友達の間では、話の判る面白い男と云われた。  学生生活の末期には、緒方昌吉は、そうにこついてばかりもおれぬ男になっていた。第一に、父親の遺《のこ》したものを、大方使い果していた。普通の学生が東京生活で必要とする三四倍もの額を、彼は誰に気兼ねもなく使いつづけたし、弟妹もそれぞれ学校生活をしていた。弟妹らは倹約な学生生徒だったが、純然たる居喰《いぐ》い生活の緒方一家に、いつか時が来ぬ筈は無かったのだ。その時が、関東大震災によって、緒方の予期より、いくらか早く来た。  一銭もかせいだことのない緒方であり、母親であり、弟妹たちであった。銭勘定は下手《へた》で、それだけに、財布の底が見えたとなると、対策を考えるよりも、先ず不機嫌になった。みんなは、今まで何の気もなく扱っていた金というものが、急に居直って憎憎しく向うに立ちはだかったのを見ると、うろたえ、心細がり、いらいらした。そうして、いっせいに、家長である昌吉の顔を見るのだった。 「これは、誰のせいかしら」  母や弟妹の、おずおずした眼つきの底に、そういう色を読みとると、緒方は、わざとのように胸を張って「もっともだ」と肚《はら》の中で云った。責任と云えば、それはすべて自分にある。何ひとつ、お前たちの知ったことではない。慌《あわ》てるな、よかれあしかれ、この俺が——こういう態度は、建前として彼に当然なものだったが、建前よりも何よりも、幼時からの極端な育てられ方に由《よ》るのか、気質として緒方のものだった。こういうふうなのが、彼には何よりも気に入っていたのだ。(その時分だったろう、彼は、ハロルド・ロイドの「俺がやる」という笑劇を観たことがある。ロイドの扮《ふん》する主人公が、陽気なお人好しの出しゃばりで、何かというと事を買って出ては、せずともの苦労をし、じたばたと大汗|掻《か》いた挙句、見事に縮尻《しくじ》って人を笑わす、そういう写真だった。その映画は、アメリカ喜劇らしく、最後に主人公が思いがけず怪我《けが》の功名《こうみよう》を立てるのだが、緒方はその写真を観たとき、思わず苦笑したものだ)——そして今五十の緒方も、このふうが抜けていない。もうずっと前、緒方は妻に、恐らくはそれに類したことを演じた折ででもあったろうか、笑いながらこの話をしたことがある。妻は「その映画、観たかったわ」と云ったが、それ以来、ときたま、緒方の言動を、「ロイド主演『俺がやる』!」などと野次ることがある。  責任者らしく振舞うことに勇ましさを感じ、緒方は、俺がやる、と肚で力みながら、ロイドのようにじたばたしたが、つまるところ、ロイドと違い、怪我にも功名を立てることは出来なかった。当然彼は、家の者の信頼を失った。  信頼を失う、ということは、緒方のようなたちの者には、重大な打撃だった。彼は由来、雌鶏《めんどり》でなくて、雄鶏《おんどり》なのだ。「愛して」貰いたい気は余りなかったが、|たより《ヽヽヽ》にして貰うことは大好きだった。「愛される」などということは、ベタついた感じで、女を相手にした場合でも、余り歓迎出来ぬ方だった。女は、こっちが勝手に(愛するものなら)愛していればよく、向うからは、たよって貰いたかった。(だから彼は、いわゆる民主的な恋愛なぞというものは、出来にくい方なのだ。これまで交渉のあった女との、いずれの場合を憶《おも》い合せてみても、そうだ。この方程式にあてはまる場合は好かったが、そうでない結合は成り立たなかった。愛情についてばかりとは云わず、緒方は、自分の、貧乏武士的な、そしてひょろひょろ家長的な気風が、生れと育ちに由るもので、今更どう動かしようもないことを、つねづね思うのだった)  緒方は、家族たちの前に、面目玉をつぶした。彼は、気持のもちこたえを失った。横暴が受け入れられなければ、彼の場合、寛大もあり得ない。彼はある時、「今日以後、私は人非人《にんぴにん》になります」と、東京の、当時|のめり込んで《ヽヽヽヽヽ》いたある女の家から、郷里の母あてに手紙を出し、それ以後、頻々《ひんぴん》と来る母からの手紙は、封を切らずに焼き捨てた。(ある友人の小説家が、その頃の緒方をモデルに短篇を書いた中に、主人公が、母親からの手紙を、そのまま便所に投げ込む、という条《くだ》りがあった。小説だからと云っても、それはどうにも気持悪かった。母のでなくとも、およそ、手紙を便所に投げ込むというようなことは出来ず、また、する気もない緒方は、雑誌でそれを読むと、早速友人にその事を云った。仲好しだったから、微笑と苦笑のうちに済んだが、長いつき合いの間、その友人に抗議めいたことを持ち込んだのは、この一度だけなことを思うと、自分の古風さに彼は微笑さえ覚えるのだ。短篇のその個所は、単行本では緒方の云い分通り直されていた)  彼は手に負えぬ息子、無頼な兄になった。親戚《しんせき》中の鼻つまみになった。  先祖伝来の土地を、捨てるように売り放って、郷党から冷たいわらいを買った。母から「死ぬ」と書いた端書《はがき》が来たが、顔色をうごかさなかった。女子大学校の最上級にいた妹が「もとの兄さんになって下さい、お願いします」と時時逢っていながら、わざと手紙にしてよこした言葉には一寸たじろいだが、黙って酒を飲みに出かけた。  酒は、酒友中、第一級の飲み手だった。飲んでよく喧嘩《けんか》をしたが、知人とは決して始めなかった。未知の人物だけしか相手にしなかった。そこには心理的もつれは全然なく、ただのスポーツと云えた。相手が未知の人物であることは、あらかじめ危険率が量《はか》られぬため、刺戟が強かった。  強引に母に承知させ、妻とした女は、愛がどうとかこうとか云うので、だんだん面白くなくなった。更に、緒方が一向仕事をせぬことに不平を云い出すに及んで、すべてはぶちこわれた。彼は、初めて、女という者を殴《なぐ》った。  ある夜緒方に殴られて、泣寝入りした女の左の耳から、血が流れ、乾《ひ》からびているのを、翌朝見つけた。  医者にやった。やがて帰って来た女は、|あご《ヽヽ》から頭のてっぺんへ、額から後頭部へと、横から見ると十字を描く繃帯《ほうたい》をしていた。鼓膜に故障が出来た、とのことだった。  女は、喫茶店の女主人で、東京のハイカラな女学校を出た、おしゃれ好きなたちだった。二十六七になる陸軍大尉の未亡人で、亡夫の遺《のこ》した金で店を開き、この方はもっと上級な学校を出た二十二三の妹と二人、女中を使って割りに景気よくやっていた。  緒方のいる大学の学生や教授たちが、主《おも》な常連だった。彼らは大体緒方の知人だったが、その常連の二三が、「マダム、その繃帯、似合いますね」と云った。「そうでしょうか」と、これも自慢のしなやかな指をくねらせて繃帯に触り、にこッと笑った。  女は、丁寧に化粧した顔に、鏡とにらめっこで、真白い繃帯をいろいろ工夫して巻きつけ、ウェーブした黒い髪を、適度にあしらった。そして、鏡の中で一つにこッと笑うと、緒方の方を向いて、「どう?」と云った。 「似合うよ」  待ち構えたように云うと、横を向いた。——いったい、その繃帯を、何だと思っているんだ、俺が、伊達《だて》に女を殴ったとでも思っているのか——彼は、何となく、この世に自分の居る場所はない、などと考えていた。  間もなく緒方は、女を残して、突然西日本の或る都市へ旅立った。郷里の者たちへは、そのことを知らさなかった。  山に囲まれた、古雅な都市、そこには緒方が長年尊敬しつづける一人の芸術家がいた。だからこそ、行きどころのなくなった彼、難破に瀕《ひん》した彼という不恰好《ぶかつこう》な船が、この世で唯一つの港と思うその都市へ、倒れ込むように辿《たど》りついたのだった。  尊敬する人の近くに小家を借りて、八カ月ほど居た。緒方はここ数年間、その人の書くようなものを一つでも書きたいと願い、努力はしたのだが、努力に正比例して肩を凝らし、四五年というもの、何一つ書けぬ状態をつづけていた。八カ月そこにいて、彼は、極めて平凡な真理に気づいた。鵜《う》の真似《まね》をする烏《からす》水に溺《おぼ》る、というのだった。|あひる《ヽヽヽ》と白鳥とは別物だということ、|あひる《ヽヽヽ》なら|あひる《ヽヽヽ》で、どこまでも|あひる《ヽヽヽ》らしく、ということ、そんな思いが、深い諦《あきら》めの中から、徐徐に、そして爽《さわ》やかに、ふくれあがってくるのだった。  細細ながら、息を吹き返した緒方が、東京に帰り、予定通り女との間にけりをつけ、身軽になって、さてと居ずまいを直してから約半年の後、今の妻、芳枝と知り合った。その春、郷里の女学校を出た芳枝が、同窓の友の嫁入先へ遊びに来ていた。  たまたま、友の良人《おつと》というのは緒方の若い知人であった。  故郷と袂別《べいべつ》し家庭を打こわして宿無し同様の緒方が、そこへ時時やって来たという偶然が、二人を結びつけたのだった。緒方は二カ月の逡巡《しゆんじゆん》ののち、肚《はら》を決めた。  何ものをも疑わぬ芳枝の天真さに深く打たれたのだった。学校では運動選手だったという五尺二寸に十四貫の、溌剌《はつらつ》と清潔な十九の肉体——しかし、その魅力だけだったら、緒方は動かなかっただろう。そのことだけで動くためには、彼はすでに、少しばかり真面目《まじめ》な「あひる」になりかけていた。自ら人非人などと号する甘たれた余計者根性に漸《ようや》く見切りをつけ出していたのだ。彼は三十一になっていた。     四  どんな育ち方の故か生得《しようとく》の野性味を多分に保存するに加えて、年齢的にも境遇的にも人生の|ぽっと出《ヽヽヽヽ》である芳枝の日日は、人垢《ひとあか》と世塵《せじん》にまみれた緒方にとって、洗滌剤《せんじようざい》の役目をした。彼は、尠《すくな》くとも日に一度は、きまって吹き出し、哄笑《こうしよう》した。何故《なぜ》笑うのか、何が可笑《おか》しいのか、と本気で問いすがる芳枝に、俺には時時何でもないくせに笑う癖があって、これが欠点なのだ、と云った。また、緒方は、いい齢《とし》をして、と自らたしなめながら、時あってほろりとし、涙ぐんだ。こんな奴をいじめるべきではない、それは善くないことだ、と思った。  緒方は、生来の雄鶏癖《おんどりぐせ》を、いくら出してもいい機会にぶつかった。芳枝が、さも大船にでも乗った気でいるからだ。安仕立ての、このボロ舟。そいつは、少しばかりの風や浪《なみ》でぎしぎしときしみ、水が洩《も》り、ひどく傾いたりする。暢気《のんき》なお客は何んにも知らず、あの雲、ああ鴎《かもめ》、海はいいなあ、とばかり云っている。船頭は、狼狽《ろうばい》その極に達しながらも、声だけは図太く「全くでがす」なぞと云うのだ。  そんなにして、今、十七年|経《た》った。ちっとも大船でなかったことは、緒方の妻にも、もうよく判っていた。同時に、自分がもはやお客ではないことも知っていた。そこには新しいお客、三人の子供がいるのだ。緒方が十何年前に書いた小説の中で「こんな芳枝も、やがては、煮ても焼いても喰えぬ古女房になるだろう、淋《さび》しいが、それが世俗だ」と云っている、その通りではないにしろ、少なくとも芳枝は、その方向に歩いてきたのだ。それは確かに「淋しい」ことだったが、若《も》しそうでなかったら、乗客のふえたボロ舟は、疾《と》うの昔、ひっくり返っていただろう。  この矛盾を緒方は、長い病臥《びようが》の折々に、解いたり結んだりすることがあった。  緒方が昔から云っている芳枝の「間抜け」や「とんちき」は、さすがに齢で、大分減った。減ってはいるが、根が生得のものだから、ときには出てくる。すると緒方は、「書いてしまうぞ」などと、たしなめる意味で云うが、一方には、一種の天然記念物的興味も感じないのではない。世の同じ年頃の女に比べ、その言動は、どう考えても未《いま》だに非実用的分子が多く、反常識であることは確かだ。  一緒になった当座、少し度はずれな芳枝の反常識、非実用的言動を、緒方は疑わしい眼つきで見ていた時期がある。若い女にありがちな、しまりのない甘さや媚態《びたい》の現れではないか、と疑ったのだった。それで、あるときは、「君みたいのは、少し気障《きざ》だぜ」と、つっぱなすように云ったこともある。しかし、だんだんとそうでないことが判ってきた。一寸《ちよつと》困りものだが、天然記念物的面白味もないことはない、とその時思ったのだ。  文学などにとりつき、それが一向うまくいかぬにもかかわらず、いつまでもしがみついていたりする緒方のような男は、世間一般からは、反常識、非実用的な人間なのに違いない。しかし、それをよくわきまえた上で、緒方は出来るだけ常識的、実用的に振舞うことを心がけた。それは、第一に、彼が自分を、天才や非凡人と認めがたかったからだ。次には、天才でも非凡人でもない自分が、それを知りながら、天才らしく非凡人らしく振舞うことは間違いであり、かつ、恥かしいことだ、と思ったからだ。  この考えは、一種のストイシズムを彼の中に打ち立てた。封建家長的気分と、雄鶏精神がそれにうまく合流して、緒方は一応かたちをととのえたかに見えた。  ところで、緒方の実際は、家産をやぶり、郷里の者と絶縁同様となり、勝手につくった家庭は、また勝手にぶちこわして了《しま》い、野良犬《のらいぬ》同然でうろついているうち、どこかの何にも知らぬ娘と一緒になる——謂《い》わば、ことごとく思量に反する、というていたらくだったのだ。  芳枝と一緒になる肚《はら》を決めるについては、これを以《も》って再出発の機としたい気持が大いに働いていた。もうそろそろいいだろう、と彼は自分に云った。「疲れたら憩《やす》むがよい、彼等もまた、遠くはゆくまい」——ロシアのある文学者が云ったというこの言葉を、彼は昔から好きだった。何か含みのある、思いやり深い人間通でなければ吐けぬ文句だと感心していた。しかし今、三十三になって緒方は、彼らは随分遠くへ行ってしまったなあ、と驚いてあたりを見廻したのである。俺は、憩み過ぎた、と今更のように心を噛《か》んだ。  がらんとした下宿のみすぼらしい六畳、その新居の、雨洩《あまも》りのあとのある壁へ、緒方は一枚の短冊《たんざく》をぴんでとめた。 「木枯《こがら》しや、一本の道、はるかにて——これ俳句ですか?」  芳枝が、学校の読本を読む調子で大きく音読した。 「そのつもりなんだが」 「つもり、って——じゃあ、緒方さんがおつくりになったの?」 「おつくりになった、というほどのものじゃございません」 「この道や、ゆく人なしに、秋のくれ、ってのがあったでしょう、芭蕉《ばしよう》の。あれに似てますね」 「うんそうか」と緒方は慌《あわて》て、少し顔を赤くした。それから、せき込んだ調子で、 「だけど、違うんだよ。芭蕉のは、あれでなかなか威張った句なんだ。われ一人ゆく、という先蹤者《せんしようしや》の気負いとほこりに充ちているだろう。ところが、こっちの方は、そうじゃない。日暮れて道遠し——それでもとぼとぼと歩かなきゃならない、みんなはもうずっと行ってしまったのに——そういう情けない境涯なのさ。句としても、芭蕉君の方がうまいようだしね」  すると芳枝は、 「芭蕉君ですって! ハッハッハッ」と大声で笑い出し、いつまでも笑っていて、緒方の苦渋な感懐なぞ、ひどく場違いなものに見えてくるのだった。——  だがとにかく、それから十七年、緒方はあまり桁《けた》をはずさずやって来た。ときには、思量に反することもしでかさないではなかったが、大事に至らず消しとめた。それは、彼の覚悟のほどを語る、とも云えぬことはないが、実は、多分に、妻の行状からの牽制《けんせい》による点があったのだ。酒飲みが二人、腰を下ろして飲み出した場合、先に酔った方が勝ちで、酔い遅れた方は、どたん場まで介抱役に廻らねばならぬ、丁度あれだった。桁や羽目のはずし比べでは、素質的にこの女には及ばぬ、と緒方は見|極《きわ》めたのだ。いい気になって同調したら生活の崩《くず》れは目前だった。自然、芳枝が浮標《うき》、緒方が|おもり《ヽヽヽ》という関係がいつか成り立ったのである。     五  わが家における、|うき《ヽヽ》と|おもり《ヽヽヽ》のコンビネーションも、俺の病気以来、変貌《へんぼう》を呈して来たようだ、と緒方は思うのだった。早く云えば、緒方の妻が、大分と|がっちり《ヽヽヽヽ》して来たのだ。何故そうなったか。それは判り易《やす》い。  齢《とし》をとり、かつ十七以下三人の子供の母親になったこと、結婚以来の東京生活から急に初めての田舎《いなか》生活に移ったこと、しかもそこは良人《おつと》の郷里であり、風俗習慣その他何事も不案内だったこと、姑《しゆうとめ》が亡《な》くなり自分が世間と直接顔を合せ出したこと、——そして、最大の原因は、緒方が病気で、いつどうなるか判らぬ身体になった、ということだ。  案外あれで、世間なみのことも、やればやれるんだな、と、緒方は、妻の嘗《かつ》ての間抜けやとんちきを想い描いて、今昔の感を催おすのだった。いやに尋常な様子を見ていると、いくらか可笑《おか》しく、多少感心もした。 「良妻賢母になったね」とあるとき云ってみた。 「誰が?」 「君がさ」 「だって、しようが無いでしょう。あに、志ならんや、ですよ」  緒方はあいまいに笑っただけだった。実は、ある淋《さび》しさを感じていたのだ。抜け目のない、実用価値満点のがっちり屋というのは、男であれ女であれ、緒方にとっては魅力がなかった。そんな相手は、気づまりであり、つき合いにくかった。ひと口に云えば、面白くないのである。そうして、自分の妻、年が年中、死ぬまで毎日顔をつき合わせていなければならぬ人間が、いわゆる良妻賢母だったりするのは、想っただけでおよそ面白くないことだった。  この調子でいくと、ほんとの良妻賢母になるかも知れない——いや、根が抜けている方だから、あれはつけ焼刃なんだろう、俺の病気でびっくりして、ああいう一時的現象を呈しているのだろう、多分そうだろう、などと緒方は気休めを考える。  いい齢をして、あたりかまわず大声でうたいながら洗濯をやる、そうかと思うと、音楽の美しさをきくに堪えず、人が聴いている最中を勝手に消して了《しま》う、そういう無心やがむしゃら、以前は少し煩《わずら》わしかったそういう妻の言動を、この頃の緒方は、ひそかに歓迎する気持になっていた。未だ脈がある、と思うのだ。  緒方は、妻のそういうすべてを、自分からの投影と見ることによって、問題を自分自身にひきつける。俺が危《あぶな》っかしくなったものだから、これではならぬと、柄《がら》にもなくあいつが頑張《がんば》り出したのだ、つまるところ、俺が駄目なのだ、あいつが昔のように、大船にでも乗った気で、心置きなく太平楽を並べるようでなくては、俺として、好い状態とは云えないわけだ、やがてあいつが無心もがむしゃらも、夢も憧憬《どうけい》も捨て切って、実用一点張りの現実屋になったら、それはもう、俺としては上ったりの時だ。  緒方は、隣家に飼っている鶏《にわとり》を見ていて思ったことがあった。いかにも雄鶏《おんどり》は雄鶏、めんどりはめんどり、ひよこはひよこだな、と。鶏共のそんな様子は、誰でも知っている通りだが、一つだけ彼の印象に残ったことがある。一羽の雄鶏が、一群のめんどりとひよこを引きつれ、悠然《ゆうぜん》としていると、突然一羽の烏《からす》が低空を通って行った。かすれた羽音がし、大きな影が鶏共の居る地面を走って行った。すると、雄鶏は、けたたましい警戒の声を発し、自分は十分に身構えて、八方に目を配るのだった。めんどりは雄鶏に寄り添い、ひよこ共はすばやくめんどりの腹の下にもぐって、鳴声も立てなかった。それは一糸乱れぬ態勢であった。  やがて、何事も起らぬと見たか、彼らは緊張を解いて餌《え》を拾い出した。緒方は、身構えた雄鶏の姿に、滑稽味《こつけいみ》を感じた。烏の羽音と影ではないか。何を慌《あわ》てることがあるんだ、それよりも、あの気負い立った勢は少し莫迦気《ばかげ》ている。そうして、この俺なんかも、誰かがわきから見ていたら、多分これなんだろう、と思った。     六  緒方は、この頃、家族の者に対する自分の態度が、以前よりもやさしくなっていることに気づいている。それは半ば意識してそうなのであり、半ばは自然とそうなるのだ。(このことは、家族相手の場合にだけ限られているのではない。また、対人関係ばかりでなく、一般に自分以外のもの、自分の目に触れ心に触れるものに対しての緒方の傾向なのだが、ここでは家族だけのことにしておく)  彼らが怒るのでなく喜ぶことを、泣くのでなく笑うことを、打沈むのでなく陽気であることを、つねに願っている。つまり彼らが仕合せであることを願っているのだ。  この変化は、特に変化というほど目立ったものではないにしろ、相手方にまるで響かぬほどのものでもないようだった。それはたとえば「この頃お父さん、癇癪《かんしやく》起しませんね」「そういえばそうね」「いくらかよくなったのね、きっと」「怒る元気がなくなったのかも知れないよ」「いやよ、そんな」——こういう妻と長女の内緒話となって反応する。  いつまでと判らぬ緒方の病気だが、長い看病でうんざり、というふうは見えず、死なれては困る、とにかく生かしておかなければ、という気持でいっぱいなことが判る。外のことは問題とせず、単に生活の点からだけでも、それはもっともと云える。つまるところ、彼らが、緒方を是非とも必要としていることは、分明なのだ。「お父さんが治《なお》ったら」「お父ちゃんのごびょうき好くなったら」——彼らの誰かが、目をかがやかして何かの計画や希望を語り始めるとき、決り文句としてその冒頭に出てくるのは、緒方の病気が治ったら、という言葉なのだ。例《たと》えば二女は「お父ちゃんのごびょうき好くなったら、圭ちゃんと二人で、国府津《こうず》の海へ行くんだねえ」そういう。二女は、三年も前から、同じことを云いつづけている。今年の夏も、母親や姉や兄につれられ、大磯《おおいそ》や国府津の海岸へ度度行った。緒方とだけは、今年もとうとうそれが出来なかった。夏も去り、明日から学校という日、「お父ちゃん、来年は治る? 治るねえ」と云った。 「来年かい、そりゃ治るよ」 「圭ちゃん来年の夏休み、お父ちゃんと二人で、国府津の海へ行くんだ」 「ああ、いくとも。大磯へも、小田原へもいくよ、圭ちゃんと二人で」 「うれしいな」二女は、眠っているときにしばしば見せる、あの夢のような笑顔をする。父親と二人で国府津の海岸へ行く、という何の変哲もない空想が、どうしてこの幼女をこんなに仕合せにするのだろう。あるいは、幼女の、病む父親にかけるあらゆる夢と希望とが、こんな変哲もないことに凝結されている、とでもいうのだろうか。  ああ、これは、がんじがらめだ、死ぬにも死ねないというが、ほんとだな、と緒方は肚《はら》で溜息《ためいき》をつく。一方彼は、自分の例の雄鶏気分が多分にくすぐられることを意識する。彼は、まんざらでもなくなり、よろしい治ってやる、治ってやらないまでも、むやみと死んだりはしないから安心したまえ、と、多分隣りの雄鶏に似ているだろう気負った目つきになるのだった。  実は、緒方が、以前よりもどこかものやわらかな男になったことには、もう一つ大きな原因がある。それは、彼が、自分の中に、誰にものぞかせない小さな部屋のようなものをつくっている、という自覚にある。  毎日顔をつき合わせ、話をし、顔つきだけでも相手の気持が大体判る、という家族の者も、緒方がそんな秘密の部屋を持っているとは知らない。恐らく彼らには、緒方がそれを隠そうとしなくても、その存在に気がつくことはないだろう。何故なら、それは彼らに何のかかわりもなく、見たことも聞いたこともなく、考えたこともないだろうものだからだ。  とは云っても、それは別にこみ入った話ではない。緒方のような境遇にある者なら、誰でも直ぐに了解するだろうことがらである。つまり、自分というものは何で生れて来たのか、何故生き、そうして何故死ぬのか、と云うこと、また、それを考えることによってあとからあとからと湧《わ》き出す種種雑多な疑問に何かの答を得ようとあせること、大体それに尽きるのである。そのことについて積み重ねられた多くの考えは、大昔から現在まで、その重みに堪えぬほどで、人間の全努力はそこに向って集中されているかに見える。宗教、哲学、科学、芸術の巨大な集積は、すべてそこへの登路《のぼりみち》と思われる。緒方もいつとなくそういうふうに教えられ、そういうものなんだろう、と思ってはいた。しかし、今の緒方から見ると、それは他人事《ひとごと》であった。  凡人のつねとして、緒方は、つねられて見なければ、痛さは判らぬのである。その上、自分でつねるのは余り好まない。文字や言葉の上では一応判り、時には自分でもそんな文字や言葉を吐き散らすこともないのではなかったが、ただそれだけのことに過ぎなかった。ちっとも身にしみてはいなかった。  自分が病気になり、どう考えても余り長い命でない、という事実にぶち当ったとき、緒方は始めて、痛い、と感じた。彼には、判り切ったことが判り切ったことでなくなった。素通りして来たものを、改めて見直すと、ひどく新鮮であった。ありふれたあたりのものも、心をとめて見ると、みんな只ものではなくなった。彼は自分の中の部屋に引きこもって、それらを丹念に噛《か》みくだき始めたのである。そういう時の彼は、自分だけであり、目先にちらつく家族は、心につながる何物でもなかった。  自分のこんな状態を、家族たちの誰に話そうと、まるで無益なことを彼は知っている。これら天真らんまんな、若い、生命《いのち》に充ち溢《あふ》れた人間たちに、それが通じよう筈《はず》はない。通じないのが当然だし、通じるのは間違いなのだ。彼らは、その生命の溢れるままに、泣き、笑い、歌っていなければいけない。緒方のような衰頽者《すいたいしや》の、夕暮れの思考は、彼らにとっては毒汁でしかないだろう。やがて彼らにも、避けがたい薄暮がおとずれるだろうが、それはその時のことでいいのである。  だから緒方は、何気ない顔で、彼らとのつき合いをつづけている。顔をつき合せ、話のやりとりもそつがないのに、頭はまるで相手とかかわりない思考にとらわれている自分を、緒方は、惨酷な、冷たい奴と思う。しかし、自分のいのちについて、自分が考えずに、いったい誰が考えてくれるだろう。これは、病気を看護し、献身的努力で自分の生命を救ってくれ、或いは生きのびさせてくれる、というようなことは、それは感謝すべきことであり、好ましいことでもあるが、しかし全く別の話なのだ、——そう思う。緒方は、いのち、或いは生というものについて、納得したいのだ、ただそれだけの、至極簡単なことなのだ。そしてそれは、自分で納得するより外《ほか》、仕方がない。そのこととは、只一人でしか向き合うことが出来ず、その作業は只一人でしか出来ない。  せんだって、ある若い文学批評家から私信が来て、その端《はし》に、「赤ん坊ギャアギャア、女房プリプリ、雑事は山積で、このところ出家|遁世《とんせい》を思うや切なるものがあります」とあった。緒方は「出家遁世ぐらい、家の中にいても出来ますから、試しにやってごらんなさい」と返事の中に書いた。何の気なしに書いたのだが、あとで、これは、と思ったのである。どうも緒方の状態には、そう云えなくもない節《ふし》がある。勿論《もちろん》、緒方は東洋流の、無常感、諦観《ていかん》の上にあぐらをかいているのではない。若《も》しそうなら、彼は、文章など一行も書きはしないだろう。書く必要がないだろう。彼には、未だ野心と色気とが残っている。  ただ、こっそりと自分だけの部屋を用意し、閑《ひま》さえあれば(彼は、大体、普通の意味では閑人である)家族と離れてそこへもぐり込もうとする、どうやらこれは、一種の出家遁世かも知れない。 「寝ていて出家遁世出来る法、か。俺の雄鶏《おんどり》精神も、影がうすくなった」  隣の鶏小屋では、また卵を生んだらしい。あの雄鶏の元気には、とても及ばない。いささかも遅疑|逡巡《しゆんじゆん》するところない、あの気負い方はどうだ。あれは立派で、堂堂としている。あれを、したり顔に、滑稽《こつけい》だ、などと見るのは、引かれ者の小唄《こうた》かも知れない。俺も、いや俺は、癇癪を起さず、凝《じ》っと持ちこたえて行こう。堪え、忍び、時が早かろうと遅かろうと、そこまで静かに持ちこたえてゆく、——それが俺のやるべきことらしい、などと緒方は考えつづけた。 [#改ページ]   華燭《かしよく》の日     一  娘の結婚日が近づくにつれ、緒方は妙にせかせかし出した。  彼は、結婚にともなう世のしきたりというものをよくは知らない。彼ら夫婦は、世間なみの手続を踏まずに結婚した。誰に相談もせず、誰の世話にもならなかった。爾来《じらい》二十五年、夫婦の間に、何一つの問題は起らなかったから、自然、結婚の様式というものに関心を払う気にはならなかったのであろう。  が、彼らの長女初枝の場合は、違っていた。先《ま》ず、ある人から、これこれの家へ嫁にやる気はないか、という申入れを受けた。相手の家も、婿となる人も全く未知なのであった。  初枝としては、これが初めての縁談というのではない。学生時分にあった話は、本人につたえるまでもなく、緒方が辞退した。卒業直後のも、一家相談の結果、未だ早いという理由で辞退した。  が、今度の申入れに対しては、緒方も妻も本人も考えなければならなかった。長女はもう二十三になっているのだ。  家中で、長女の結婚話に一番乗気でないのが緒方だった。嫁にはやらなければならない、しかし、一日でも遅くやりたい——一口に云えばそういう気持だった。これという理由は無い。ただ、一日でも長く長女を側《そば》に置きたいだけのことだった。  よく聞いてみると、相手は気楽な家らしかった。両親に息子一人。父親はある会社の支店長で、地方の大都市に居る。息子は別の会社の社員で東京住いだ。母親は、良人《おつと》と息子との間を往来していて忙しい、という話。 「それは、早く嫁が欲しいというのももっともだ」  緒方は観念したような言い方をした。父親は官立商科大学出で証券会社勤め、息子は緒方と同じ私立大学だが理工科出の工業会社員、——小説なぞ書いている緒方とは全く違った世界に住む人たちだが、それだけに却《かえ》ってさっぱりしていいだろう、と緒方の気持は動いた。 「とにかく一度本人に逢ってみるか」 「ええ」 「しばらくつき合ってみるか」 「そうしたいと思うんです」  逢って、そしてつき合うとなれば、大抵話は決ったようなものだな、と緒方は寂しく考えた。  青年が、申入れをした人につれられて緒方の家へ来た。身体《からだ》の大きな、丈夫そうな、快活な青年だった。二十八だという。  月に一度か二度、青年と初枝とは、連れだってどこかへ出かけた。帰って来ると、初枝は、こまかく報告した。  そういう状態のうちに、春から夏になった。先方から、確約を迫ってきた。それを受けて、緒方の妻が一番積極的だった。緒方はぐずぐずしていたが、反対すべき理由が見つからなかった。 「肝腎《かんじん》の初枝はどうなんだ」 「厭《いや》でも無いようです」 「それならいいだろう」  そう云ったが、それなら仕方がない、とでも云っている調子だった。  盛夏の頃、結納を取り交《か》わした。そんなしきたりの我が家に踏込んで来たことが、緒方には多少|可笑《おか》しかった。一方、こうなったら決定的だ、と慌《あわ》て気味でもあった。何も慌てることはないじゃないか、と思いながら。  秋、十月か十一月に挙式したい、と先方から云ってきた。  緒方の妻は、それでもいいという顔だったが、緒方は、 「来春にしよう」と云った。 「延ばせば延ばしただけ荷が重くなりますよ」 「そう急に準備は出来ないさ」 「準備だって……何も大げさなことをするわけじゃなし」 「それはそうだが、俺としては、ばたばたとはいかないんだ。疲れるから」 「疲れる」というのが緒方の切札だった。彼は病身だ。それ故、己《おの》れのペースをみだすことを極度に嫌《きら》っている。戦後十年にわたる歳月を、どうやら凌《しの》いで来たのも、緒方がストイックなまでにそのペースを守りつづけたからである。妻もそのことはよく知っているから、それ以上何も云えないのだ。  挙式は、明けて三月半ば頃、と決った。緒方は、まだ半年以上ある、と、向うで何かやっている娘を眺《なが》めた。     二  東京まで汽車で約二時間という湘南《しようなん》の田舎《いなか》に住む緒方は、仕事の用、遊びの用でしばしば上京する。以前は、上京のたび、宿屋に泊った。疲れて日帰りは無理だった。  この頃は、日帰りも出来る。いくらか健康を取り戻したのである。それでも、午前中家を出て用を済まし、夕方、あるいは夜、東京駅か新橋駅で湘南電車に乗り込むと、疲れから座席にぐったりとなって了《しま》う。  そういうあるとき、彼は、頭の上の網棚《あみだな》に、一つの花束を発見した。彼は、二人分の席に横になって、目の端でその花束を見ながら、それを忘れてか、あるいは捨てて行ったかした新婚者のことを考えた。  その二等車は、熱海《あたみ》から折返して来たものだ。緒方はホームで待っていて、降車客と入違いに乗り込んだ。車内掃除で待たされるということもなかった。  ——新婚者は、熱海に着くと共に、網棚の上の花束のことなぞ忘れ果てて、約束の宿へ急いだのだろう。そして、花束だけが空《むな》しく発駅東京まで戻って来た——先ずそう考えた。やがて、あれは忘れたのでなく、置き去りにしたのかも知れぬ、と思いついた。人目に立つ花束なぞを抱《かか》えて、熱海駅に降り立つのを厭《いや》がる人もあろう——そう考えると、緒方は網棚に目をやったまま苦笑した。そして、どっちでもいいじゃないかと思った。  同じ車室に、幾組かの新婚者たちが乗っていた。熱海行のこの電車だから、行先は熱海、湯河原、箱根などであろう。花束を持っている組もあり、そうでないのもあった。快活に話しあっている二人もあり、行儀よく並んでかけているのもあった。  緒方は、乗換駅に来ると、網棚から自分の小さな持ち物を下ろしながら、花束をちらと見た。カーネーション、菊、ガーベラ、その他の花花が、少ししおれているようだった。彼はローカル線のホームに向って歩きながら、あの花束を持ち帰って壺《つぼ》に挿《さ》してやるのもよかったな、と思った。     三  緒方は、何事によらず、自信の無い男だった。仕事の上でもそうだが、世上のことでは尚更《なおさら》そうだった。  彼は少年の頃、父に反抗して、文学というものに(それがどういうものかよく判《わか》りもしないのに)足を踏み入れた。そのため、肉親から孤立したばかりでなく、知るほどの人から、侮《あなど》りを受けた。世間知らずだった彼は、ガムシャラの強がりで、自分の思うままに走った。その結果、産を破り、肉親を苦しめ、知人に迷惑をかけた。二十代で妻を持ったが、いくばくも無く離れ去った。  彼は、自分が身のほどを知らぬ判らず屋ということを痛感したが、もう引きかえすことは出来なかった。緒方は、そういう気持で五十半ば過ぎの現在までやって来たのである。自信の無さは深まるばかりだが、もうそれはどうにもならぬとあきらめている。むしろ、こんな自分が、よくここまで生きて来たものだ、と感心するぐらいなのだ。  緒方は偏狭だ。好悪《こうお》がはっきりし過ぎている。気の進まぬことには、手を出さぬ、彼自身の解釈によれば、それもつまりは自信の無さから来ているのだ。時に彼がずうずうしく見える場合が無いことも無いのは、追いつめられたものの無計算な抵抗に過ぎない。  抵抗——。彼の場合、それは動かぬことだ。みんなが動く。彼は動かない。それが彼の抵抗なのだ。     四  長女の初枝は、緒方が三十二の時生れた。その前年、彼は現在の妻をめとった。彼らは、場末の、薄汚い下宿の一室で新婚生活を始めた。世間的に見れば、みじめな有様だったが、彼自身としては、それが分相応と思われたから、むしろ気楽だった。他人のせいでは無い、身から出た錆《さび》——|しん《ヽヽ》からそう思っていた。ただ、そういう自分の道づれになった妻を、満で云えば十八歳の芳枝を、気の毒と思った。彼は自然、芳枝に対し、半ば良人《おつと》、半ばは父親としてふるまうようになった。幼い時父親を亡《な》くした芳枝の心情が、緒方のその気持を助長させた。  初枝が生れる一と月前、彼らは下宿から追い出された。夜具その他、主《おも》な荷物(それとて乏しいものだったが)は、溜《たま》った下宿代のカタとして宿に預け、手廻りの物だけ持って、友人の下宿に逃げた。その友人は独《ひと》り者だったが、貧乏にかけては緒方たちに引けを取らなかった。 「この期《ご》に及んで追い出すとは、ひどい話だ。よし何日でも、大船に乗った気でここに居たまえ」と友人は云った。  友人の部屋は、屋根裏まがいの三階にあった。やはりボロ下宿だから、少しの風にも、「大船に乗った」ように揺れるのだった。  急をきいた別の友人が奉加帳を廻して何がしかの金を集め「足りなければまた何とかする」と持って来てくれた。  それで何とかなった。綺麗《きれい》な産院の一室で、初枝は安らかに生れた。つづいて、小さな一戸建ての家に入ることが出来た。友人たちは、 「君の作品中では、これが第一等の傑作だぞ」と初枝のことを云った。そういうことを云われても仕方のない緒方だった。  初枝が生れて、緒方は、自分のグウタラ根性がつくづくと省みられた。妻を持ち、子供を生む——そういう世間なみのことを、世間なみな顔でやりながら、仕事の方は何の目鼻もついていない。世間なみへの抵抗は、自分勝手な仕事を気ままにやっていくためだった筈《はず》なのに、仕事は一向せず、ただ抵抗だけが空廻《からまわ》りしている。それも、今は腰折れになって、世間なみの良人になり、父親になった……。  彼は、いわゆる自己|嫌悪《けんお》に陥った。やがて、その自己嫌悪を文字に現わしてみたい、と思い始めた。そして、ぽつぽつと、金にならぬ原稿を書き出した。  ひどい貧乏だった。貧乏は厭だったが、一方、貧乏だということが気休めにはなった。 (俺は、この世で得をしているわけじゃない。うまいことをしているわけじゃない)そういう気持が、わずかに緒方を支《ささ》えていた。それが、何となく彼に大きな顔で貧乏させる、という奇妙な作用を及ぼした。  芳枝は迷惑したらしい。結局のところ緒方は、芳枝をゴマカしつづけたわけだが、何も緒方のゴマカし振りが特に巧みだったわけではない。芳枝がゴマカされ易《やす》いたちだったのである。何も判らず、記憶にもない筈《はず》だが、初枝は一層迷惑したわけだ。初枝は、十位になるまで、何となく弱かったが、それは赤ん坊時代の貧乏ぐらしがあとあとまで祟《たた》ったものに違いない。  初枝に三年遅れて長男秋男、九年後に二女貞子が生れたが、この二人は弱くはない。貞子の方は、頑健《がんけん》と云っていい。緒方は、現在、満で二十三、二十一、十五になった三人の子供を眺《なが》め、不思議という気がしてならない。 (よく育ったものだ)そう思って彼は感心するのである。彼は、自分が三人を育てたという気がしない。彼らが育った、という感じでしか来ない。殊《こと》に、初枝の場合そうだ。  小さい頃、初枝はよく病気をした。二歳から三歳の頃、隣家の子無しの夫婦に可愛がられ、「貸して下さい」とよく隣りへ持って行かれた。芳枝も、手が省けていいので、隣りの細君に渡すのだが、食べ物の注意は怠らなかった。これこれのものは食べさせないでくれ、と断るのを忘れなかった。  しかし、隣家で与えられた何かがアタって、初枝は疫痢にかかった。リンゲル液だとか葡萄糖《ぶどうとう》だとか、小さなモモに、まるでゴムマリをくっつけたような大量の注射をしたりして、どうやら助かったのだが、消化器が弱いばかりでなく、風邪《かぜ》もひき易かった。骨が細く、色は白過ぎた。  二十三になった今も、骨は細く、色はやはり白過ぎる。そんな初枝を見ていると、緒方は、物悲しくなる。 「初枝、もっと食えないか」 「ええ?」 「もっと飯でも何でも食えないかと云うんだ」  緒方の云い方は、怒っているようだが、そうではないのだ。  初枝は、芳枝とちょっと顔を見合わせて、 「だって、もう無理よ。ねえお母さん」 「初枝はこの頃、大分食べるようになったんです。貞子より上わ手ですよ」 「ふうん」 「スカートのボタン、窮屈なんです」とそこを叩《たた》いて見せた。 「ふうん。目方は?」 「十二貫」 「少ないね。五尺二寸で十二貫——もう二貫目ぐらいふえなくちゃあ。貞子は同じ背丈《せたけ》で十四貫五百だろう」 「体質ですもの」  緒方は黙って了《しま》う。体質か。体質とは何だろう。     五  年が明けて三月中旬、初枝の結婚式の前日、緒方は初枝と二人で上京した。婚家は東京で、したがって、式や披露は東京で行われる。午前十一時半挙式、というので、当日その時刻までに上京して万端調えるのは無理だったから、前日上京したわけだ。介添役をつとめてくれるという知人の家に泊めて貰《もら》うことにした。  初枝は、あるデパートの美容室へ出かけた。ついでに、二三買物をして来るとのことだ。緒方は、日が迫るにつれ多用だった上に風邪を引いていたから、早目に床をのべて貰い、横になっていた。  七時頃戻った初枝は、髪の出来工合を緒方に見せてから、 「着付けの予行をして見ます」と云った。明日洋装の礼服を着る時の下着類を、一応着けて見ると云うのだ。 「今夜は早く寝た方がいいよ」 「三十分ぐらいで済みます。何か手落ちがあると大変だから……」 「そうか。なるたけ手早くおやり」 「はい」  しかし、手早くは済まなかった。先ずいろんなものを並べて点検する。身につけるコマゴマしたものが大分ある。二つあるものは、どっちにしようか、と迷う。迷った挙句、緒方に相談する。緒方は、そんなものは頭から問題にしていないから、いい加減にそれがいいと賛成する。  すべて揃《そろ》えてから、それをいちいち身につけ始める。緒方は、この子は、どうしてもっとふとらないのか、と考えている。身につけるものばかり気にしている初枝に、「そんなものはどうだっていい」と云ってやりたくなる。  そして緒方は、初枝の出生時分のこと、幼年時代のこと、戦争中のこと、大学時分のことと、次次に憶《おも》い出し、またあと戻りして憶《おも》い返すうち、今ここにこうして、花嫁|衣裳《いしよう》の下調べをしているのが、あの初枝なのだ、ということを実感として受取るのに戸惑うかたちである。  緒方は、長男の秋男が東京の下宿先から帰って来ると、妻の芳枝の顔付や声、殊《こと》に声音がはっきりと変ることを知っている。子供への態度に差別をつけるべきでない、というようなことは、芳枝も緒方同様よく心得ていながら、秋男に向うときの変化は、かくしようもないのだ。それはかくすとかかくさぬとかではない、自然の発露なのだ。そして、秋男は母親好きだ。それと同様に、初枝は、どうやら父親好きのようである。そういうことに対する外国のある心理学者の解釈は当っていると緒方も思う。  緒方の初枝に対する気持の中に、そういう分子があるか無いか。緒方は、有ると自分で思っている。  そういう親子間に於《お》ける一般的コンプレックスと共に、初枝に対してだけ抱《いだ》く緒方の特殊な気持がある。それは、一種の自責とも云うべき苦痛をともなった哀憐《あいれん》の情である。その由《よ》って来《きた》るところは、先に述べた初枝の出生時、幼児の、親としての暮らしぶりにあった。 (今となってはどうにもならない。それだけに尚更《なおさら》——)と緒方は思う。  同じ女の子でも、二女の貞子に対しては、そういう奇妙な感じは抱いたことが無い。貞子の幼時は、同じ貧乏でも程度が違っていた。初枝の時分ほどではなかった。貞子が、中学生のくせに背丈《せたけ》は五尺二寸以上で、体重十四貫五六百というのがその証拠だ、と緒方には思える。細い身体《からだ》で、勤勉で、おとなしい初枝は、のんびりしていてずうずうしく、わがままで勉強嫌いな九つ年下の妹から、ことごとに圧倒されているのだ。すべての点で初枝は貞子のヴォリュームに及ばない。——  下着類をつけ、鏡に写し、さらにあっちこっちいじくったりして、三十分以上|経《た》った。 「もうやめなさい」と緒方は云った。  初枝は、順順に身体からとったものを、丁寧に始末する。そのやり方が丁寧すぎる。それでいつも小言《こごと》を云われるのだが。漸《ようや》く終って床を敷き、寝巻きに着換える。 (こうして、床を並べて眠るのも今夜ぎりだ)  ふいとそういう感慨が緒方に湧《わ》き上った。センチメンタルだ、と思いながらも、その感慨を圧《お》しつぶす気にはならなかった。 「初枝ちゃん」と緒方は幼時から呼び慣れた云い方をした。「いよいよ、さようならだな」  初枝が、うん、というふうにうなずいて、緒方を見、微笑したが、それが急に泣顔に変った。両方の眼に、見る見る涙が溜り、直ぐ鼻のわきを流れ落ちた。 「泣くな、明日困る」  初枝はうつむいて、袂《たもと》を目に持っていった。緒方は、何も云うことは無いのだ。いや、有ることはある。 「あんたは真面目《まじめ》だが要領が悪い。身体が頑強とは云えない。その辺を気をつけてやっていきなさい」 「あんたを嫁にやるのは、ほんとは気が進まないんだ」  云うとすればそんなことだが、前の言葉は今更めいて莫迦莫迦《ばかばか》しいし、あとの方は身勝手な言い分だ。緒方は、命令口調で、 「洗面所へ行って、目を冷やしておいで」  と云った。初枝はうなずいて立上った。やがて戻って来たが、濡《ぬ》れタオルを持って、てれくさそうな顔付だった。  緒方は、時時使う睡眠薬をカバンから取り出した。「これを服《の》んで寝なさい。あんたは初めてだろう?」 「ええ」 「そんなら四粒ぐらいでいいだろう。お父さんは七粒だ」 「大丈夫かしら」 「何が」 「寝過ぎやしないかしら」 「過ぎたら起してやるよ」  初枝は物珍らしそうな様子で薬を服《の》んだ。それを見届けてから、緒方も服んだ。     六  緒方は、当日、田舎《いなか》の家から出て来た妻、長男、二女らと、式の行われるホテルで落合った。妻が持って来た紋服をつけた。疲れている上に風邪《かぜ》は幾分悪化して、ひどく大儀だった。  式は予定通り終った。洋式礼装の二人が、神官のノリトを神妙な様子できいているのが、ちょっと異様にうつった。  だが、真白い礼装姿の初枝は、思いの外美しく見えて、緒方は何となく慰められた。  暫《しばら》く休んでから、披露宴になった。双方の縁者知友を合せて六十人ほどの参列者だった。  初枝の幼時からを知る何人かの人たちが立って祝辞を述べた。緒方は、マイクロフォンが不調のため聞きとりにくいそれらの祝辞を、耳に手をあてて熱心に聞いた。どの祝辞の中にも、何かしら緒方の気持を揺すぶるものがあった。列席の人人が笑うような話も、緒方は笑って聞いてはいられなかった。医師のT博士は、幼い初枝の命を取り止めてくれた人だった。 「初枝さんの病気が治《なお》ったとき、全快祝いに招《よ》んで頂きました。第二回目のお祝いはこの席です。私は、早く第三回目のおめでたに出会いたいと願っております」とT博士は云った。拍手が起ったが、緒方はただうつむいているのみだった。  初枝に半年ほど先だって結婚生活に入った緒方の友人の娘が立った。その友人は、緒方と同姓であり、娘は初枝と同名だった。年頃も同じ、学校も同じ文科で、ときどき緒方初枝違いの笑話が出来るのだった。 「一足お先に私が大村初枝になりましたので、もう間違いは起らないと安心したのですが、初枝さん御結婚とうかがって、また心配になりました。お嫁入先が大村さんという方だったらどうしようと思ったのです。けれども、古谷さんだったので、今度は本当に安心致しました。おめでとうございます」  友人の娘がそう述べたときは、またさかんな拍手と共に、笑いさざめく声が起った。緒方もこのときは笑うことが出来た。この友人の娘の結婚披露式には、緒方夫婦も、初枝も招かれた。そして初枝は、新婦に花束を捧《ささ》げる役を命ぜられたのだった。  やがて宴は進み、旅装に着かえた初枝は、芳枝の友人の娘である少女から花束を受取って、新郎と共に式場につづく駅のホームへ行った。芳枝、秋男、貞子はもとより、初枝の友人その他多くの人たちが見送りに、とあとを追った。  緒方は大儀な身体を、自ら引きずるようにして、さらに一階上の控室に入った。誰も来なかった。彼は礼服のままソファーに横になり、目をつぶった。暫くそうしていた緒方は、ふと気づいて、窓際《まどぎわ》の椅子に席をかえた。そこからは、東京駅ホームの西|端《はず》れが見える。  緒方は時計を見た。三時になろうとしている。 (そろそろ発車だな。たしか「いでゆ号」だったな。見える筈だ)緒方が、どの辺のホームか、と眺めていると、発車の合図が鳴った。向うの方のホームから、電車が頭を出した。その頭は、するすると延びて次第に速力を増した。二等車が出てきた。 (あれに乗っているんだな)  緒方は気の抜けたような顔で、西へと走る車を眺めていた。彼は急に寂しいと思った。そして、少し悲しくなった。 (初枝のやつは、花束をどうするだろう。忘れるか、捨てるか、持ってゆくか)  緒方は、寂しさと悲しさとをはぐらかすため、わざとそんなことを考えるのだった。 [#改ページ]   退職の願い     一 「お父さんは耳が遠くなりましたね」と妻が云った。 「うん、遠くなった」と即座に応《こた》えた。ラジオでニュースを聞いている時、隣室から妻が何か云いかけ、それを私が訊《き》き返したため、そんな会話になったのだった。妻は、私が聞きとり損《そこ》なった最初の発言を繰り返す代りに、耳が遠くなったと、いくらか改まった口調で云ったぎり、黙ってしまった。私も、うん遠くなった、と応えただけで、あとはニュースを聞きつづけた。  二、三分してそれが終ったので、ラジオのスイッチを切ると共に、 「さっきは何だ?」と妻に云った。 「ええ?」 「さっきは何と云ったんだ」 「ああ、あれ……忘れました」  どうでもいいことだったらしい。それならこっちもどうでもいいのだ。  私は自分の耳が、遠くなったというほどではないにしろ、いくらか鈍くなったことを認めている。少し可笑《おか》しくなったかな、と気がついたのは、約一年前のことだ。そして、それよりさらに一年ぐらい前から、もの覚えが悪くなったことをひそかに認めていた。  若い頃、私はひどくズボラだった。不精《ぶしよう》で、ものぐさだった。気の向くことには結構打込んでまめに動いたが、そうでないことには全然立ち上る気がなかった。 「めんどうくせエ」というのが、二十代の私の口癖だった。  しかし、二十歳で父に死なれ、母と弟妹四人をのこされた私は、世間的には一家の主人だから、厭《いや》だと云ってもしなければならぬ世間的な用があった。大正中期の、未だ旧《ふる》いしきたりのきびしい時代で、しかも一層保守的な田舎《いなか》に長く住みついた私共一家であった。  私は、気の向かぬことを、「めんどうくせエ」と云いながら、どしどし片づけた。それは実にいい加減なやり方だった。どっちへ転《ころ》ぼうが、とにかく片づけばよかったのだ。そんなふうに「ええいッ」と懸け声もろとも、一挙に片づけてしまうか、でなければ、見向きもせずにほっておいた。ほっておくと、そのことは、いつか片づいていた。大抵の場合、それは都合の悪い方へだが。  ——二十四か五、まだ学生の頃、友人一人二人と連れ立って街を歩いていた時のことだ。私はくわえ煙草にふところ手で、友人より一、二歩先を歩いていた。身体《からだ》が小さいくせに、誰かと一緒に歩くと、必らず先に出ていた。私は、何となく歩き方が速かった。それは、中学の五年間、往復十六キロの道を徒歩通学したためについた癖だったに違いない。  風が、口付煙草の火を吹き散らした。その小さな火の粉が、私の鼻柱にとまった。熱い、と思った。しかし、直ぐ消えるだろう、とたかをくくった私は、ふところから手を出さなかった。手を出すのが億劫《おつくう》だったのだ。  火の粉は消えた。しかし、その消え方が、私の予想より一瞬遅かった。私は鼻柱に小さなやけどをつくった。  四十年も前の、そんな瑣事《さじ》を憶《おも》い起こす。私はこの瑣事が、自分のものぐさをうまく表徴していることに満足をさえ覚える。     二  つくづく思うことは、自分が、一個の人間としても、社会人としても、いかに素人《しろうと》か、ということだ。六十四歳になってそんなことに気がついた。  もっとも、ここで云う素人に対する玄人《くろうと》というのが、どういうものかは、よく判《わか》らぬ。判らぬけれども、そんなものがあるのだろうと思わぬわけにはいかない。——未熟もの、練達者という言葉も浮ぶが、私の感ずる素人、玄人は、それと似ていながら、どこかで少し違うようだ。  私の職業は、年鑑などに「著述業」又は「作家」と書かれていて、今ではそれに慣れたかたちだが、本当をいうと、ぴったりしない感じがある。とは云え、ほかに何をやっているわけでもないから、職業、となれば、そうしておくより仕方ないとは思っている。  だが、自分が作家、あるいは小説家だとはっきり云う——いや、云うより先に、そう思うことについて、いつも疑問を抱《いだ》いていることは事実だ。 (文章を書いて、それを新聞や雑誌に売って生計を立てていることに間違いはない。ただ、その文章が問題だ。自分の書くものが、世間で云う小説になっているのかいないのか。幸《さいわい》に作家扱いをしてくれるので、いくらかそれらしい形をよそおうことによって、世すぎをはかっている——誰かにそう云われたらどう応えるべきか。誰からもそんなことは云われたことはないが、俺自身はいつも自分に向って問いかけている。もうそろそろはっきりした返答をしてもいいのじゃないか——。いや、こんな調子ではいけない。少しせっかちに過ぎる。ええめんどくせエと、強引に四捨五入してはいけない、そして出来ない問題なのだ。もう少し時間をかけて整理しなければいけない)  整理。  私は、ここ数年来、このことばかり考えている。何もかもが片づいていない。何がどうなっているのかまるで判らない。  整理とは、ものごとを整頓《せいとん》し、筋道を立て、なるほど、これはこうなのか、と納得することだと解釈している。私は、整理という言葉を、有形無形すべての事物にわたりこの意味で使っている。  ものごとを雑然紛然とさせぬためには、差当っての事物を、間を置かず各個撃破していくに限る、と長い経験から知った私は、近年そのやり方を日常|瑣事《さじ》に援用して、いくらか功をおさめている。その第一の例は、手紙類に対する返事である。返事の要《い》る便りには、それを直ぐ出すことにした。出しそびれるとなかなか果せず、ついには心ならずも礼を欠くに至る。礼を欠くだけならいいが、自他共に処世上重大な損失を招く場合もある。  昔、三十歳前後で東京に居た頃、郷里(現住所)から来る母の手紙は一切開かず焼き捨てていた一時期があった。私は、人非人《にんぴにん》になる、などと揚言し、それに似た言動をこととした。母のみならず、弟妹をも一切相手にしなかった。  すると、借金の抵当にしていた家屋敷が、いつか競売に付されていた。あとで聞くと、再再の母からの手紙は、その危険の迫ったことを報じ、私の善処を要望したものだったという。私の「ほっとけズム」は、鼻柱に小さなやけどをでかしたり、家屋敷を失わしめたり、その他挙げるに煩《わずら》わしいさまざまの不都合を生み、その結果私は郷党から「緒方の極道息子」なる尊称を受けるに至った。  自分が、特別な責任感欠落者だとは思わない。小さい時分から、旧《ふる》い家の「あととり」としてのきびしい躾《しつ》けは受けてきた。二十歳の春、父に死なれると、大いにその気になって、世間知らずの母や幼い弟妹をしたがえ、世に処してあやまちなからんことを期したのは勇ましかったが、その本人が全くの世間知らずなのだから話にならぬ。すべては事志とたがう結果となり、私はその反動力を利して逆の方へつっぱしった。  肩からひっぺがしてなげ捨てた長男としての責任感を、今度は亭主として、また親爺《おやじ》として、進んで背負う気になったのは、現在の妻をめとり、長女を生んでからである。俺は還俗《げんぞく》したのだ、と自分に云いきかせた。時あって人非人ぶる旧来の陋習《ろうしゆう》も、努力の甲斐《かい》あってだんだんと影をひそめ出し、終戦前後四、五年にわたる郷里での病臥《びようが》生活を経てからは、ほぼ平均的家庭人となることが出来た——と自負している。     三  四、五年にわたる病臥生活——。現在ではほぼ恢復《かいふく》と云っていいが、これは実のところ予期以上の成績だ。危険状態に陥ったのが四十五歳の八月末だから、丁度満二十年になる。ひそかに生存五カ年計画というのをたてたが、それが第三次までくると計画なぞどうでもよくなった。つまり一日生きれば、それだけ得という気分に変ってしまったのだ。そうして、六十を越して間もなく、もの覚えの悪くなったことに気づいた。一年ぐらい前から、聞きとりが鈍ったことに気づいた。  ラジオを聞きながら新聞を読み、傍《かたわ》ら妻や子供の話に応答する、というようなことをよくやって、子供から、 「お父さんだって|ながら《ヽヽヽ》族だ」と云われたものだ。ラジオを聞きながら勉強する癖をたしなめられた末娘の反撃であった。 「うんそうか。この頃そんな言葉があったな」 「かえりみて他を云わないで下さい」 「他を云ってるわけじゃないさ。圭ちゃんのは勉強だろ? お父さんはただ新聞読んでるだけだ」 「ベース音楽流してる方が、勉強、頭に入るんです」 「ふうん」  私は、ふッと憶《おも》い出した。二十代の頃、短篇を書くとき、文章と平行に、いつか頭の中で即興的に作曲しているのが常だったことを。(あれとこれとは違うかも知れないが、しかしどこかで通ずるところがあるんだろう。いや、違うかな。それはそれとして、その後の俺は、文章にともなってリズムやメロディが出てくるなどということはなくなった。これは何かを失ったということなんだろうか?)思いがそんなふうなことへ走ったため、ながら族問答はそれぎりになったが……。 「お父さんは耳が遠くなりましたね」という妻の発言には、一種重さと云ったようなものがあった。反論の余地はないでしょう、と云った気構えが感じられた。それを聞いた私は、思わず、その通りという調子で返事をして了《しま》い、あとに、「だが」とか「しかし」とかをくっつける気が全く起らなかった。  それからあとも妻は私の耳については何も云わない。忘れてしまったのではないだろう。私の方は、それをタネに文章を書くほどこだわっているのだから、あれぎり何も云わぬ妻の気持まで忖度《そんたく》したくなる。それを正面から訊《き》くのも変だという気があって、こうもあろうかと考えてみたりする。 (いよいよあなたもそういうことになってきたんですね)つまるところそんなふうなことではないか、と考える。そこで私は(ああそうだよ、残念ながら)と応える。そうして、両方共、それ以上云うことはないし、云っても仕方がないのだ。     四  満で算《かぞ》えて上の娘が三十一、嫁にいって子供が二人ある。長男は二十九、嫁を貰《もら》ってこれまた二人の子持ちだ。共に独立の生計をいとなんで、私どもの方へは何の負担もかけない。私どもが気にすることと云えば、彼らやその家族の健康についてだけである。次男がいたが、これは生後三カ月で死んで、それも二十五年前のことだから今は問題なし。末娘は今年三月学校を出ると共にある新聞社につとめ出し、この六月初めで二十三になった。未婚。  右の通りで、親爺《おやじ》としての私に残された業務は、末娘の身の振方だけである。  よくここまで辿《たど》りつけたものだ、と、私はつくづく感心する。世間を見渡せば、これはまったく当り前のことで、自分の生んだ子供を独立させたとて、それが何で自讃《じさん》の足しになろうか。  だが、やっぱり私は、親爺としての自分の業績をかえりみると、良い気分にならざるを得ない。世間から見れば当り前すぎることを、何故《なぜ》喜んだり、自分で感心したりするのか。それにはそれだけの理由がある、と私は考える。  昭和の初め頃までの社会通念として「文学に志すとはそのまま貧窮につながることだ」というのがあった。これは、今の若い人たちの理解を超《こ》えることかも知れぬが、初老に達した人なら直ちにうなずいてくれるだろう。そんな通念の当不当をここで云う気はない。また、それを通念たらしめた社会のあり方をとやかく云うつもりもない。  私が文章を書いていこうと心に決めたのは、大正中期の頃だから、右の通念は崩壊の兆《きざし》さえ見せず、私共の前にしっかりと立ちはだかっていた。当時の文学志望者はすべて、そのことを納得した上で歩き出したのである。  大多数の者は中途で離脱し、頑張《がんば》る者は窮死した。極く少数の才能あるものが名を成したが、それらも概《おおむ》ね夭折《ようせつ》した。  そういう心がけや、そういう心がけに追い込む社会風潮の是非は別として、私もまたそういう状況下に文学志望者として出発した人間であることに間違いはない。  私は、才能が無いくせに中途離脱せず(というより、他に行きどころが無くなって)頑張った組なので、あわや窮死という状態に立ち至った。無念ではあったが、一方、身から出た錆《さび》という気があるから、自分自身としてはあきらめ気分も持つことができた。  その重病が、四、五年の臥床生活でどうやら立直ったのだから有難い。  その上、戦後の風潮として、小説や読物類がむやみと歓迎され始めた。いわゆる流行作家が輩出した。私には流行的作品が書けないので、はやりはしなかったが、遠い地震の余波のように、わずかながらもその余沢を受けることができた。  昭和二十年、敗戦の年、末娘は三つだった。相模湾《さがみわん》上空から侵入した敵艦載機グラマンの編隊が、裏の曾我山《そがやま》の頂上あたりで反転すると、麓《ふもと》にある私ども民家や駅を逆落《さかおと》しに銃撃した。敵操縦士が首に巻いた白いマフラーの、一直線になびくのを見た。銃弾や空薬莢《からやつきよう》が、庭石に当って鋭い音を立て、はねかえるのを見た。その時、末娘の挙げた「こわいッ」という悲鳴。  そして、敗戦後の不如意|極《きわ》まる何年間。  娘が二十歳になったとき、私は市の教育委員会から頼まれて成人式に出席、祝福の言葉を述べた。娘と同年の、概して大きな身体をした少年少女たちの、活力そのものと云った顔を壇上から見たとき、ある感動から、言葉がスムーズに出てこなかった。戦争末期の諸情景が鮮《あざや》かにうかんで、言葉の邪魔をするのだ。戸障子をビリビリとふるわせる機銃音、石にはねかえる銃弾の冴《さ》えた音。駅に集積された味方野砲弾の一時間にもわたる誘爆発音、飛来するその破片の、何とも形容できぬ音、屋根と畳をつき破って床下の土にズシンとつきささる音。小さな者の悲鳴。  敵機が去ったあとの空の、うそのような青さ、窓外の樹樹の緑、花の紅白。それらを病床から眺《なが》める私は、現実と非現実の間をうろうろしている。突然、三つの娘の歌声がおこる。彼女気に入りの「予科練の歌」である。よく透《とお》る声の、たどたどしい歌い方は、気の弱まった病人をひどくゆすぶる。私は、誰も見ていないのをいいことに、涙の流れるに任せる。——  そんな情景が目の前にたちふさがるので、言葉はつかえ勝ちとなる。私は、つづめて云えば、皆さんが無事に育ってくれたことを感謝する、と述べて壇を降りた。壇に近く大勢居並んだ市の職員とか父兄とかの手前、「親御さんたちや先生方の御苦心御努力」についても一応言及したが、力点ははっきりと「皆さん、ほんとによく育ってくれた」というにある。その晩の食卓で、末娘から「お父さん今日は、変だったわよ」と云われたのから察しても、私の話は相当に主観的だったらしい。     五  先日上京して娘を勤め先から連れ出し、銀座その他へ行ったときのことを述べなければならない。別に何事も起ったわけではないが、私にとっては忘れられぬ日だ。  大体私は、東京へ出るのが嫌《きら》いである。もう三、四年も前から随筆などで時時書いているので繰り返すのも大儀だが、つまり東京の、いわゆる公害が余りひどいからである。  国府津《こうず》で湘南《しようなん》電車に乗りかえると、一時間三十分|乃至《ないし》四十分で新橋駅に着く。その電車の窓から吹き込む風は、横浜に近づくと共に臭くなる。新橋か東京で降りる頃には、鼻がいくらかバカになっているが、時時、ふッと空気がにおい立つ。  タクシーに乗って、信号三回待ち、などというところで停っていると、排気ガスの臭さでたまらなくなる。胸が悪くなり、頭痛がする。時には途中でタクシーを捨て、手近の喫茶店か何かへ逃げ込むことがある。その店ではまた、ジャズが大きく叫んでいる——。  東京在住の人には判るまい。しかし私のように、二十年も田舎《いなか》に在《あ》って、清澄な空気と水と緑の中に、騒音から離れ住む者には、東京は濁った沼としか感じられないのだ。私は淡水魚になって了《しま》った。塩分過多な東京で、どうして呼吸のつづく筈《はず》があろう。  いろんな会合にも、よんどころない場合にのみ出席する。若《も》しそれがパーティのようなものであれば、大概中途で退席する。  上京となればまた、いくつかの用をまとめて果そうと努力する。用件と、その順序とをうまく案配し、メモする。だから東京に於《お》ける私の行動は当然あわただしくなる。  先日の上京でも、やはりそうだった。三個所ほど廻って用をすまし、午後三時頃娘を勤め先から連れ出した。目的は、私の靴とネクタイとを買うのに娘を立会わせることだった。私一人ではどんなものを買うか心配だという妻と娘の世論にしたがったのである。私もそういうことには自信がないので——つまり、買物と云えば手に当ったものを買う癖があるので、娘に選ばせた方がいいと思った。  娘に連れられて三軒も四軒も廻った。それは困るのだったが、娘に一任した以上、我慢するほかはなかった。漸《ようや》く買物が済むと(ついでに娘の靴も買わされて)私は急に生生となり、タクシーを停めて娘を勤め先へ戻し、同じ車で東京駅へ行った。ホームをかけ上ると、丁度国府津で御殿場線への連絡のいい電車に間に合った。私はいきが切れて苦しかったが、好都合な電車を捕えたことで満足した。  玄関に出てきた妻が、 「もうお帰りなの。早いわねエ」と云った。 「丁度いい電車に間に合ってね」私の口調は幾分弁解じみている。 「圭《けい》ちゃんは?」 「社に用が残っているそうで、この次の次ぐらいで帰るだろう」  慌《あわ》てることもないのに大急ぎで服を脱ぎ散らす私。それを拾って廻る妻。 「お夕飯は?」 「未だだ」  妻ががっかりした調子で、 「圭ちゃんと一緒にどこかで済ますのかと思ってた。何にもありませんよ」 「無くたっていいよ。早く一本つけてくれ」  私は、東京の空気を吸えば吸っただけ損なような気がして、用が済めばさっさと田舎へ逃げ帰る。ローカル線の小駅|下曾我《しもそが》駅に降り立つと、梅のさかりの頃なら、梅花の匂《にお》いが鼻にくる。蜜柑《みかん》の花のさかりにはその匂い。  妻にとっては、たまにしか外出せぬ私の帰宅があまり早いのは迷惑なのだ。それは判っているが、だからと云って東京でぶらぶらしようという気は毛頭ない。 「帰ったよ。悪かったね」とこっちから云ってやることもある。  その夜、私の予想通り二タ汽車遅れ、娘が買物をぶら下げて帰ってきた。靴や何かをそこにひろげ、娘は自分のをはいて見たりして一としきり騒いでいたが、そのうち、 「お父さんと一緒の買物は、せからしくていやんなっちゃう」と云い出した。 「そうなのよ。昔からそうなんだから」と妻が忽《たちま》ち同調した。 「わしには、君たちみたい買物趣味が無いからな。古本を除けばね」 「あたしたちに買物趣味があるのは確かだけど、それは必らずしも趣味だけじゃないと思うわ。品物をよく選ぶんですもの」 「趣味と実益とを兼ねるか。結構だよ。わしがつき合えぬだけでね」  気楽そうにそんなことを云っていたが、娘が真顔で、 「お父さんは、せかせかしすぎますよ。駅の階段の上り下りとか、車道横断とか、もっと落着いてた方がいいと思うわ」そんなことを云い出すに及んで私もどこかひっかかる気分になった。 「それはね、上京するとき、用を沢山持って行くからだよ。自然急ぐことになるんだ」 「それはそうかも知れないけど、危ないんですよ。見ていてハラハラしちゃう」 「ふうん、そんなに危ないか。——わしは、そんなによたよたしているのか」私の顔からは、もうにやにや笑いが引込んでいたろう。 「よたよたしてるなんて……そんなこと云ってるんじゃないんです。今日だって、銀座で車拾うとき、いきなり車道へ出ていったりして……ひやッとしちゃった。車を拾うぐらい、あたしにだって出来るのよ。あんなふうだと、お父さんと一緒に歩くの、辞退したくなっちゃう」  たたみかける、という娘の調子だ。私は、なにをッという顔で娘を見返したが、次の瞬間、うんそうか、とうなずくことがあった。やや間を置いて、 「わかった。大いにわかった」と云った。  娘と妻が、それを聞くと、急に気が抜けたようになり、つづいていかにも気の毒という表情になった。 「もう木登りなんか、絶対にできませんね」と妻がとりなすように云った。 「なアに、留守の間にやるさ。——靴やなんか片づけてくれ」  それをしおに、二人はそこいらの物をひっさらうようにして隣の部屋へ移り、箪笥《たんす》をあけたり閉めたりし始めた。  私は、うんそうか、とうなずいたことの次第を、さらに考えつづける。 (——俺もこの辺でそろそろ引退すべきなんだ、うすうす感じてはいたが、今はっきり判った)  十六年ほど前に『痩《や》せた雄鶏《おんどり》』という短篇を書いたことがある。その頃(昭和二十三年末)私は、恢復《かいふく》の自信を持たぬ病人だった。ひそかに立てた第一次生存五カ年計画の末期に当っていた。  隣家で飼う鶏一家の様子を病床から見飽きるほど見ているうち、雄鶏《おんどり》という奴が、いかに典型的な家長ぶりを発揮するかということを発見確認した。ことに当っての雄鶏の挙措止動はいやに親爺《おやじ》的かつ亭主的であり、それも、こっちから見れば取るに足らぬことに対してまで生真面目《きまじめ》なオーバーな構えを執るのが、甚《はなは》だ滑稽《こつけい》に感じられた。  私は苦笑した。自分の姿がそっくりそこにある、と思ったからだ。顧みると、妻を持ち子供を生むと共に、ひそかに還俗《げんぞく》を誓った私は、とりもなおさず、雄鶏たることを自らに課したのだった。その決意の重大さに比して、私は極《きわ》めて非力であった。だから常住|坐臥《ざが》じたばたし、したがって、それが本気であればあるほど、滑稽感を切り離すことができなかったのである。  じたばたしながらも、ひどく痩せた雄鶏は、どうやら所期の目的に近づくことができた。上の子供二人を育て上げ、独立させた。末っ子の教育も終り、これを職に就《つ》かしめた。あとは適当な配偶者を得ることだが、これは当人に任せればいい……。 (なア圭ちゃん、さっきはいやにはっきり云ってくれたが、考えてみると、実にタイミングがよかったと思うよ。よく判ったから、ここらでお父さんも、鋳掛松《いかけまつ》みたいに宗旨を変えることにする。うるさいだろうから、球《たま》が来るごとにあんたのうしろへ廻るのは、もう止《や》めにする。多分あんたも、番ごとトンネルしたり、ハンブルしたり暴投したりすることは、もうないだろう。万一、球は転転外野の塀《へい》、となったら、自分で追っかけ給え。一点や二点とられたってクヨクヨするな。自分で打って取りもどせ。——考えてみれば、あんたの齢《とし》には、お母さんはもう二人の子持ちだったんだ……)  私は隣室で、衣類をいじくっている二人に大きな声で云いかけた。 「丁度いいから、わしはそろそろ手を引くことにするよ」 「え? 何を?」二人が云った。 「いや、考えたんだよ。こっちも疲れてるし、もう圭ちゃんも一人前だから——」  二人が声を揃《そろ》えて笑い出した。 「お父さん、ヒガんじゃった」と妻。 「そんなつもりじゃないのよウ」と娘。 「ひがんでなんかいない。なるほど、と思ったんだよ——。なるべくこっちへシリを持って来ないように、しっかりやるんだな」 「困るわお父さん。ええと——向後とも倍旧の御愛顧お引立てのほど、伏して悃願《こんがん》つかまつります、敬白」 「わかったよ」  それから中一日おいて私はまた上京した。例によって二、三の用をかけていたが、最後に娘の社へ行った。そこの幹部二、三人と話があり、三十分ほどでそれを済ますと、娘を呼び出して貰《もら》った。娘には何の用もなかったが、ちょっと顔を見たかったのだ。娘がやってくると、一階へ連れて降り、 「未だ帰れないのか」と云った。 「やりかけの用があるの。あと一時間ぐらい」 「それじゃ駄目だな」 「何か?」 「新橋のO軒へ寄って、一緒に飯を食って帰ろうと思ったんだが……」 「わア残念!」 「十分ぐらいいいか?」 「いいわ」  一階の喫茶室に入って、「何でもとりなさい」と云った。  やがてそこを出ると、正面玄関の方へ歩きながら、 「車を拾ってくれ」と云った。 「オッケー」  娘はすっと玄関を出ると、丁度来かかった空車を手際《てぎわ》よく停め、開けたドアのわきに立って、気取ったふうで迎える恰好《かつこう》をしてみせた。私はことさら悠然《ゆうぜん》たる足どりで車に乗り込み、反《そ》りかえり、大いに気取った様子で片手を挙げた。車は、貴顕紳士を見送りでもするような慇懃《いんぎん》なポーズの娘をのこして走り出した——。  私はもう大分前から、長男と歩くときはすべて彼に任せきりである。夕刊を買ったり、電車の切符を買ったり、タクシーを拾ったり——すべてそんなことは彼にさせる。彼の先に立って歩こうともしない。私は彼を、いわば付け人扱いにして安心していられる。もっとも長男は、以前から|そつ《ヽヽ》の無い方だった。登校時ハガキなど持たせてやれば必らず投函《とうかん》した。新聞社や雑誌社への用を命ずれば、間違いなく果した。持物を落したり掏《す》られたりしたこともない。だから、付け人的素質がもともとあったのだと云える。  これに反し、末娘はそう云う点で全然信用がならない。(妻も同様だが、ここでは触れない)投函を命じたハガキが、二、三日|経《た》って彼女のハンドバッグから出てくる。蟇口《がまぐち》は再再掏られる。金を渡して買物を命ずると、これもよく忘れる。買って帰っても釣銭を戻そうとしない。着服を企んでいるのかと思うとそうでもない。無関心なのだ。  だから、末娘とのつき合いでは、こっちが付け人的にならざるを得ないのだ。いろんなことで、トンネル、ハンブル、暴投をやるから、バックアップするこっちは奔命に疲れるばかりだ。 「少しほっといたらどうですか」と妻が云う。 「ほっときたいのは山山だが、何しろ差支《さしつか》えが起るんでね」 「根が横着なんですよ」 「横着だ。それにずうずうしい」 「たしかに度胸はありますよ。あたしなんか足もとにも及びません」 「そうだろうな」  このあとへ、多くの場合、「何しろお父さんが甘いんですから、まるでこの羊羹《ようかん》みたい」などとつづく。そして家庭争議的|雰囲気《ふんいき》に陥込《おちこ》む。  だが、これからはもうそんな心配もなくなるだろう。私は彼女の付け人たることを辞《や》め、却《かえ》って向うを付け人扱いしてやることに決めたのだから。  何だかだと世話をやき、年甲斐もなくちょこまかと立廻る父親を見て、危ないッと肝を冷やすこともあろうが、みっともない、とうんざりするときだって無いとは云えまい——そう思うと、私は苦笑のうかぶのを止めることができない。     六  私の云う還俗以来、私は、簡単に云えば二|兎《と》を追ってきたわけだ。末娘の付け人たることを辞《や》めていいとなれば、私は私なりに一兎を得たことになる。敢《あ》えて二兎を追うて二兎を得ようというのが、私のひそかな野望であった。  平均的亭主かつ親父たる姿勢を崩《くず》すことなく、しかも年来志す仕事にも何とかして目鼻をつけたい、というのだ。この二兎を追うことの困難さは、私と同業の人たちには直ぐ判って貰える筈だが、一般の人人にはなかなか呑《の》み込んで貰えぬだろう。  二十年の昔、敵機の機銃掃射音におびえた悲鳴、また透った声でたどたどしく歌う予科練の歌、それを病床で聞く私——そんなイメージがいつまでもつきまとう末娘とのつき合いであった。「もう沢山!」とでも響きかねぬ娘の言葉と、「お父さんも先が見えましたね」ぐらいに翻訳可能な妻の云い草とが重なって、大げさに云えば、私は眼の鱗《うろこ》が落ちた思いをさせられた。  雄鶏という地位身分から去るの好機である。退職をしたい。小さい頃からそうなるように躾《しつ》けられたおかげで、長い間無理にも気張ってきたのだが、もはやそんな滑稽《こつけい》にも類する身振りは必要としなくなった。とにかく私としては一兎を得たのだから。  子供の整理|整頓《せいとん》というのは、私にとってその種業務中の大難事だったのだが、それがほぼ完了となれば、これほど有難いことはない。私は本当に有難いと思う。この告白は額面通りに受取って貰いたいものだ。  これからはほかの整理にとりかかる。片っぱしから整理してゆく。書庫に山積した古本や古雑誌の整理、古手紙の整理、古写真の整理、父親から伝えられた古い書付類の整理——とっつき易《やす》いものから先ず始めることだ。それらと平行に、頭の中では長い間つつき廻しても一向らちのあかぬ考えの整理も進めよう。この整理の進むことは、とりもなおさず文章の仕事の進むことだが、云うまでもなくこれが最大の難物だ。しかし、私はもう一匹の兎《うさぎ》を得なくてはならない。耳が少しおかしくなったりもの覚えが悪くなったり、というのは心細いが、今やまぎれもない年寄りなのだからそれも仕方なかろう。そのことをはっきりと自覚することによって、却《かえ》って整理がはかどる、というふうにもっていけないものでもあるまい。  梅の実がぽとりと落ちた。 「あッ憶《おも》い出した」と妻が頓狂声《とんきようごえ》を挙げた。 「なんだ」 「お午《ひる》のニュースのとき、あたしが何か云って、それをあなたが訊《き》き返したでしょう、あれですよ」 「耳が遠くなったときか」 「ええそう。もうそろそろ梅の実を落したら、と云ったんです。あの時梅の実が落ちたの、今みたいに」 「よし、これから叩《たた》き落そう」 「これからア……」とひどく迷惑そうな顔をした。 「思いついたら直ぐやった方がいい」私は立上った。  妻が、しぶしぶ立上りながら、 「どうしてこうせからしいんでしょう」と独《ひと》りごとのように云った。私は聞かぬふりをして縁側から下りていた。 この作品は昭和二十五年一月新潮文庫版が刊行され、昭和四十三年九月編集を変えた改版が刊行された。 外字置き換え ※[#「奚+鳥」]→鶏